花はいつも咲き誇る

 ぽつりと一滴の水が濁った色の空から降ってきたかと思えば、あっという間に雨へと変わっていった。
 篤(あつし)は折り畳み傘という殊勝なものは持ち歩いていなかった。瑞樹(みずき)の方を振り返ると、彼も無言で首を横に振る。梅雨入りがまだ宣言されていない中の不幸だった。

「どっか屋根あるとこないか」
「あるかなぁ」

 駅から少し離れたところで開催していた個展へ寄り道し、そこを出たばかりだから商業施設はあまり見当たらない。道ゆく人々が足早で移動する中に二人も紛れ込む。あっという間に雨脚は強くなっていく。
 あっちゃん、オレこれ見たいかも――外窓から見えた絵に惹かれ瑞樹はなんとなしに声をかけ、篤は深く考えず二つ返事で了解したのだ。ギャラリーには今の時期にふさわしい、青い紫陽花の水彩画があったのを瑞樹は思い出す。そして、声をかけなければよかったと後悔した。
 髪が雨を吸って少しだけ重くなり、瑞樹は途方に暮れる。そこで篤は声をあげた。

「おい、あそこ、公園」

 彼の指差す方を見れば、人のとうにいなくなった公園があり、ベンチの上にはたくさんのツタが絡まった屋根がついていた。既に濡れてしまってはいるものの、下着までずぶぬれになる事態は防げるかもしれない。

「走るぞ」
「うん」

 篤は瑞樹の手を握り走り出す。瑞樹の手の冷たさに篤はぎょっとしたが、言及している暇はない。瑞樹をほとんど引っ張るような勢いで向かった。
 アスファルトからぬかるんだ土に変わり、スニーカーに泥が付く。他に誰もいないというのに、二人は場所取りに気を取られ慌ててベンチへ腰かけた。髪や肩はすっかり濡れてしまったが、屋根があって雨があたらなくなっただけでもどこか安心する。

「どれくらいでやむかな」
「まだしばらく時間かかるんじゃないか」

 濃い灰色に染まった厚い雲が空を覆い隠している。見上げながら、六月になったのだから折り畳み傘くらい持ち歩くべきだったと篤は反省した。不測の事態に備えるのは瑞樹の方が気は利いているが、彼も油断していたのだろう。
 ふと、額に何かを押し当てられた。

「ほら、あっちゃん雨拭いて」

 瑞樹がハンカチで篤の額を拭っていた。淡い藤色のハンカチには、色の通り藤の花がワンポイントで刺繍されていた。篤は笑って瑞樹の手首を掴んでどかす。

「やめろよ、ハンカチ汚れるって」
「ちょっとでも拭かないと風邪ひいちゃうよ」
「でもそれ、瑞樹のお気に入りのやつだろ」
「それは、そうだけど…」

 その手首の冷たさに、篤は瑞樹をじっと見た。寒いのだろうか、顔がやや青ざめて見える。瑞樹の手からハンカチを奪い、額に張りついた濡れた前髪を逆に拭いてやった。

「うわっ! オレはいいって」
「お前身体弱かったじゃん、ほんとに風邪ひくぞ」
「いつの話してんの…」

 瑞樹よりだいぶ粗いやり方だったが、くすぐったそうに彼は笑った。しかし、篤に頬や顎を拭かれているうちに、その顔は今の空のようにどんどん曇っていく。

「…ごめんね」
「何が」
「オレが個展入りたいって言うから、雨降ってきちゃった」
「別に。入っていようがなかろうが降ってただろ」

 伏せられた瑞樹の睫毛に雨の小さな滴がつき、伝って落ちると涙のようだった。篤は親指の腹で拭う。キスをする前の互いの姿勢に近いとなんとなく思った。

「瑞樹は絵、好きなんだろ。見るのも描くのも」
「…うん」
「だからそんなこと言うなよ。俺ひとりじゃまず入らねぇから、行けてよかったよ」

 本心だった。篤は芸術に特別関心のあるタイプではないが、それでも瑞樹の描く絵は綺麗だと思っていた。言葉ではそれしか伝えられなくても、感銘を受ける気持ちには違いなかった。
 瑞樹はようやく顔をあげ微笑んでみせる。美しい三日月型の唇に、篤もつられて笑う。笑ってくれて、よかった。

「あっちゃんは変わらないね」
「は?」
「そうやっていつも、俺の欲しい言葉をくれる」
「…そうか? 思ったこと言ってるだけだよ」
「うん。それでも」

 ハンカチを持っていた手をほどき、絡ませてくる。瑞樹の手のひらも指先も、本来の体温を取り戻していた。互いに指の太さがこんなにも違うとハッキリと知ったのは、篤と瑞樹が気持ちを通わせてからだ。
 中学生の頃には自分より背の大きくなった篤を見上げ、瑞樹は回想する。さりげなくて飾らないものだけれど、感性が周囲よりも高いせいで何度も落ちかけた瑞樹を救いあげてきた篤の言葉たちを。

「芸大を受けようと思ったときも、絵の仕事に就こうと思ったときも、ずっとあっちゃんが側にいたからなぁ」
「まぁ、そりゃそうだよな。ずっと付き合ってるわけだし」
「…そういう恥ずかしいことも平気で言うよね!」

 大学進学で進路が分かれるのを機にいよいよ幼馴染の魔法も解けると思い込み、高校卒業時に瑞樹は全てを失う覚悟で篤へ想いを伝えたのだ。
 今もこうして手を結んでくれる奇跡を、彼はどれほど自覚しているのだろうか。幸せすぎる悩みを瑞樹はときどき噛みしめる。
 篤も昔を振り返る。自分と比べると、瑞樹はずいぶんといろいろな顔を見せてきた。自分には理解できない、芸術家ならではの苦悩で荒れる彼も近くで見てきては、不謹慎とは思いつつも感心していた。自分には、できればいいところに就職して金を稼ぐ、程度の人生設計しかなかったから。

「変わらないさ」

 先ほどの瑞樹の言葉に、篤は答えた。その瞳に射抜かれて、瑞樹の身体は一瞬固まる。

「ずっと瑞樹は…瑞樹のまま、キレイだと思ってるよ」

 ――こんな雨の降る中でも、もがいて苦しんでも、光は差し込む。

「…初めて描いた絵、ね。あっちゃんは覚えているかわからないけど」

 長いこと横に並んでくれる、がっしりとした肩へ寄りかかる。未だに雨が降り続けているせいで、世界には二人にしかいないようだ。

「紫陽花の絵だった。生まれて初めて描ききった本気の絵。…あっちゃんは、キレイって言ってくれたんだよ…」

 黙って華奢な身体を抱き寄せられた。
 篤は、瑞樹の見ている景色は果たしてどれほど美しいものなのかを思い描く。――これからも、一緒にそれを見ていたいと雨音の中で願った。

《了》