灼熱地獄・イン・ザ・アイス

 下の名前で呼んでみるのも、ふらついたふりで寄りかかるのも、みんなの前でさりげなく褒めるのも。
 この人にはなんにも通用してくれない。

 灼熱地獄って言葉もあるとおり、この世は本当に地獄なんだと思う。ジリジリと太陽に焦がされて死にそうな二人のサラリーマンが、ダラダラととめどなく汗をかきかき道を歩いている様なんて、なおさら地獄だ。
 孝則(たかのり)さんは得意先のオフィスビルを出た瞬間にネクタイをゆるめ、駅でもらったらしいウチワを絶え間なくあおいでいる。
 俺は孝則さんの、髭の剃り跡の残る顎先から汗がちぎれ落ちるのを見ながら、あぁ今すぐにでもホテルに入りませんか、などとほざいてみせてぇなとか、そんなんばっかり考えていた。

「譲(ゆずる)もあちぃんだろ? ほれ、使えよな」
「いや、いいッス。孝則さんのが暑苦しいんで」
「お前も言うようになったなぁ」

 新卒で入社してから数年くらい経ったことだ、この言葉を孝則さんからよく聞かされるようになったのは。数えきれないくらい言われてるけど、どの記憶を探っても孝則さんは笑いながら俺に言う。

 自社ビルがあるのはご立派なことだけど、最寄り駅から徒歩十分はかかるこの距離、夏と冬は社員も可哀想だ。
 夕方にはまだ遠い、人の少ない昼時の俺たちでさえこんなびしょぬれなのだ、真っ昼間に営業に出ろなどと言われたら、俺なら間違いなく最寄り駅まででもタクシーをためらいなく使う。
 孝則さんならどうするかな――考え始めたところで、ちょうど当の本人がいたずらっぽく口角をあげて俺を手招く。その先はコンビニだ。

「ダメ、俺もー限界。アイスでも食おうぜ」
「孝則さん、経費で落としちゃいましょーよ」
「バカ言え」

 俺の悪だくみには乗ってくれず、ウチワの面で頭を軽くはたかれた。
 入店すると、キンキンに冷えたクーラーが肌を撫でていく。孝則さんがシャツをまくっていた腕をさすって震えてみせた。

「うーさぶ、サブイボたつ」
「それ、シャレッスか? ツッコんでほしいッスか?」
「黙らっしゃい」

 暑さのせいか、照れのせいか孝則さんの耳は赤い。できるだけ都合のいい方に考えたいから、照れのせいだと思うことにした。
 自分がいわゆる「親父」らしいことを気にしている孝則さんは、そう意識するときに目頭近くにできた小さなシワに触るクセがある。知っているのは、きっと俺だけ。

「何にしようかなぁ」

 やはりこの時期、アイスはよく売れるらしい。人気の商品は空になっている。特に好きな味なんて考えたことない俺は、適当に目に入ったソーダ味のアイスを手にとる。

「俺これにするッス」
「俺はもち、これ」

 孝則さんはコーンのついたチョコアイスを掲げて見せた。

「これ好きなんだよなぁ」

 自分のアイスはどうでもいいけれど、孝則さんはこのアイスが好きなんだ。そういう情報は瞬時にインプットされて、俺の記憶に焼きついて離れてくれなくなるのだ。
 レジに向かおうとすると、手に持っていたアイスを孝則さんに取り上げられた。

「アイスサボりに付き合ってくれたお礼な」

 別に、あとの工程なんて最寄り駅まで向かって俺たちは自分のオフィスに電車で戻り、お礼メールやら何やら雑務をこなすだけだ。
 たかだかアイス程度で、「金くらい出す」とか言ってもっと先輩ぶってもいいのに。
 悔しくなるほど、焦がれる。

「あっちぃ」

 会計を済まされ、もう一度俺たちは地獄へ出る。
 客先に行くときから何度も言っている言葉を吐きつつ歩きながら、孝則さんはペリペリと包装を器用に半分の位置で剥がしてみせた。食べ慣れているのだろう。ほとんど手元も見てないくらいだ。
 俺も孝則さんに倣いバリバリと包装をあけ、木の棒が刺さった、今の空よりかは薄い色の塊を取り出して唇に当てる。それだけでヒンヤリとずいぶんと身体中が涼しくなった気分になれる。
 ひと口かじると、シャリシャリ気持ちのいい音がして、口の中がキンと一気に冷えた。

「はぁ…生き返るッスね」
「本当にな。ま、カロリーは気にしなきゃだけど…譲はまだヘーキかもだけどな」

 大きなひと口でかじってみせたあとで、孝則さんは力なく笑って腹あたりをさすった。昔から履いてきたスラックスが如実にきつくなっている、と話された覚えがある。
 新入社員時の孝則さんのことを、俺は詳しく知らない。酔いの席で思い出話として消化されるだけのエピソードだらけだ。
 同い年だったら、見えるものも、見たくなかったものもどうにかなるのだろうか。

「なぁ、譲。それひと口ちょーだいよ」
「…は?」
「昔ながらのアイスだよなぁ、それ。久しぶりに食ってみたいんだわ。俺のもひと口やるからさ」

 この暑さに、この孝則さん。あぁ、本当にこの世は最悪だ。
 そう悟ったときに、俺の返事は決まっていた。

「いいッスよ、アーンしてくれるなら」
「……」

 絶句した孝則さんが立ち止まった。そのせいで二歩くらい先へ俺が行ってしまって、互いに嫌でも向き合う形となる。
 どこかで蝉がミンミンとけたたましく鳴き声をあげている。それなのに、俺が言葉を口にしたが最後、孝則さんが沈黙しているだけで、この世は世界一静かな地獄になる。

「孝則さん」
「…なに」
「アイス溶けてるッスよ」
「あっ!?」

 孝則さんの指をクリーム状の液体が伝っていた。それだけで率直にエロいなんて中学生でも思いつかない感想を抱き、一瞬で脳内からかき消した。

「冗談ッスよ、冗談。早く行きましょう」
「…なぁ、譲」

 俺が歩き出しても、孝則さんはついてきてくれない。カバンからハンカチを取り出し、溶けたアイスクリームを拭く孝則さんはいたって冷静だ。
 というか、いつもそうだ。いつも穏やかで、ときどきおどけてみせて――こちらの本心を真面目に受け止めようとしてしまう。

「どうして俺なんだよ」

 「言うようになったな」までの回数はないけれど、告白したときから何度も繰り返されてきた質問を孝則さんは再び俺に問うた。

 マジで、ただ単にやらかしてしまったのだ。
 タイミングが合った二人でのサシ飲みで、内心浮かれまくっていた俺は、酒のペースも早くなって、緩み切った頭で何の判断もつかなくなった。
 ただ、体調を心配してくれる孝則さんにめちゃくちゃキスしたくなって、告白をした。
 孝則さんが好きです。たったそれだけ。それだけで、俺の地獄は今でも続いている。
 馬鹿すぎる自分と、拒否も肯定もしないで、そんなことなかったかのように、俺といつも通り一緒に過ごす孝則さんのせいで。

「そんなの、」

 新卒のとき、猫をかぶって畏まっていた俺に「緊張しないで、何でも相談しろよ」と最初に声をかけてくれたこと。オフィスツールの使い方、よく使うコマンドを隣に来て教えてくれたこと、あとでそのコマンド集を紙にまとめて渡してくれたこと。まだまだ若手の俺の提案を「よく考えたな」と素直に褒めてくれたこと。俺がヘマしたときに「死ななきゃ何やったって大丈夫さ」なんておおげさな言葉で励ましてくれたこと。目尻にもある皺。出っ張った喉仏。誰をも見捨てない姿勢。
 全ての記憶が降り積もって、はっきりと名前のつく想いになった。この気持ちが瓦解すれば、どれだけ楽になるのだろう。
 それでも、――なかったことにされるのだけが、一番苦しく、砂ひと粒ほどの望みがあるのでは、と俺はすがりたくなる。
 だって、孝則さんは何にも変わらないままずっと優しくて、俺はバカみたいに優しいこの人を、めちゃくちゃ好きになってしまったのだ。

「聞かなくたって、考えてほしいです」

 蝉がどこかでずっと命を叫んでいる。汗は吹き出て止まらない。
 それなのに、俺と孝則さんの間には、目には見えない何かが阻んでいて、それはすっと風が抜けるみたいに冷たく、恐ろしいのだ。
 触れれば燃えるように熱いだろう、このアスファルトの下に控える灼熱の地獄を想像する。
 俺の手に持っていたアイスも溶けて、汗と同じようなスピードで下へ落ちていった。

 

《了》