秘密の終わりはとても優しい

 好きな人がいると告げた声は、俺が今まで聞いてきた冬馬の声の中で一番小さいものだったと思う。
 尋ね返すと、本当は誰にも言いたくなかったんだ、と前置きをしてから冬馬は小さい声のまま話し始めた。同じくアイドルとして第一線に立ち活躍する女の子を好きになってしまったこと、付き合いで行ったはずのライブで見た笑顔が忘れたくても頭から離れてくれないこと、でも女の子をこんなに意識するのは初めてで、職業も相まってどうすればいいのか分からなくて、もう頭がパンクしそうであることをやたらと早口で教えてくれた。俺は冬馬のこんなに戸惑った顔を近くで見るのが初めてで、その顔が冬馬の家の冷蔵庫にあるトマトよりもずっと赤いように見えて、それがなんだかおかしくて新鮮で笑ってしまった。
 笑うなと冬馬が声のボリュームを一気にあげて怒鳴る。ごめんと謝る一方で、人の恋を笑うことなんて俺にはできないと思った。冬馬が赤い顔のまま、どうすればいいんだよと俺に救いを求める。なんて可愛い冬馬、お前のためなら俺はなんだって手伝うよ。
「じゃあウブな冬馬のために恋のアプローチを手伝ってあげよう」
 そう告げると、冬馬はやたらと上から目線だと不満そうに呟いて、でもやっぱり安心したような表情を見せたから俺はそれ以上何も言わなかった。いや、何も言えなかった。何も言えないまま時を過ごした俺は失恋した。何も言わなかったから当然の結果だった。俺は冬馬に恋をしていた。

 初めて会った時から冬馬への印象はそんなに変わらない。思考はまるでスマートさに欠けているし、子供っぽい理屈を持ち出すこともあれば大人の都合をあっさり受け入れて、だけど受け入れたように見えてじつは納得してなくて。絵に描いたような熱血で、素直で、怒りっぽくて、プライドが高くて、プライドに裏打ちされる努力を怠らない俺たちのリーダー。俺より弱いところも強いところもたくさん見てきた。
 華々しくステージの上にいるときも、過酷な練習のときも、事務所を出てしばらく日陰に追いやられたときもずっと感情を共有していたからだろうか。ずっと側にいたせいで、感情を思い余らせているだけだと思っていた。だけど久しぶりにサイリウムで埋め尽くされたステージの上に立って、蛍光色の淡い光に照らされた冬馬の横顔を見たとき、あぁダメだと思った。この顔をもっと、ずっと見ていたいと思う自分に気づいてしまった。惹かれる気持ちは一旦自覚すると否定できなくて、冬馬のかっこよさに触れるたびに苦しかった。成長を止めることを知らない冬馬は俺から見ればとても魅力的でならなかった。
 せめて、側にいられれば。そんな甘い願望を抱いていたけれどそれももうおしまいだ。冬馬は俺が女の子の扱いに慣れているから相談したらしかった。翔太にはまだ話していないらしい。
「じゃあ秘密だね?」
 少し試すような言い方をすればからかわれるから絶対言うんじゃねぇと釘を刺されてしまった。俺は俺しか知らない冬馬の秘密を知っている。それだけでなんだか仄暗い優越感を感じる自分がいた。例えその秘密が自分と冬馬の間に壁を作るようなものであったとしても、だ。
 俺は冬馬に色々なアドバイスをした。デートするときは必ずいつもと違うところを見つけて褒めてあげるんだよ、女の子にお金を出させちゃダメだよ、ちゃんと車道側を歩くこと、外でその子が一人になる時間を作らないこと。冬馬は難しそうな顔で俺の話を聞いていた。俺は、冬馬に愛される子はとても幸せだろうと思った。
 冬馬の好きになった子とは一緒に仕事したことがある。礼儀正しくて、アイドルとして売っているけれど愛嬌の他にも歌がうまくて、笑うととびきり可愛い子だ。その子に愛される男は幸せだろうと思った。冬馬がそうなればいいと心から願っていた。

 部屋にあがった途端、冬馬が興奮冷めやらぬ様子で俺に話したことは初めてのデートのことだった。週刊誌にあらぬことを書かれるのを心配してマスクとサングラスで待ち合わせ場所に行ったら、相手も同じ格好で最初はお互い誰か分からなかったこと、初めて見る相手の私服は似合っていたのに口に出せなかったこと、一緒に行った水族館にはとても大きな鮫がいて、だけど名前を忘れてしまったこと、館内のレストランで食べたカレーは思ったより美味しくて家でも作ってみたいこと、別れ際に相手がまた一緒に出掛けたいと言ってくれたこと。
 冬馬が素直にこんなに饒舌になるなんて初めて見た。恋は人を変えてしまうのは本当かもしれない。だけど話したくて話したというよりも、初めての感情や感覚に戸惑って、これらをどこに置けばいいのか分からないといった感じだ。話を聞き終わるときにはマグカップのコーヒーは既に温くなっていたし、ソーダのグラスには水滴がたくさんできていた。新しいできごとをぶちまけたあと、冬馬は俯いて自信がないと呟いた。あまり冬馬の口から聞きたくなかった言葉だったけれど、俺はそうだねと答えた。
「恋をしたら誰だって弱ってしまうよ、俺だってそうだから」
 本当かよ、と鋭い口調で言われる。そうだよ、俺もつらくなるんだよ、冬馬。俺はこの恋をどうやって捨てればいいのか分からないんだ。好きな人がずっと側にいるからなのか、冬馬がまだ一人だからか分からないけれど。冬馬は顔をあげて、次一緒に出掛けるときは前よりもっと良くなるようにすると俺に誓ってみせた。俺にそんなこと言ってもなぁと笑いながら、そんなことを言う冬馬が誰よりも幸せになりますように、と思わずにはいられなかった。

 夢を見た。冬馬の後ろ姿が見える夢だ。光が差している冬馬の背中はやわらかな縁取りがされているようで、隣には冬馬の好きな子がいた。俺は見ているだけで、身体を動かそうにも足がまるで前にいかない。だから俺も背を向けようと踵を返したところで目が覚めた。

 その夢を見てから時々思い出すのは今まで冬馬と作ってきた思い出だ。他人と身体を重ねて、血と皮膚が一つになるような感覚を知っているからだろうか、記憶の中の冬馬はいつも隣にいて、そのどれもがかっこよくて、思い出はどれもきらきらとしてステージの上に負けないほど綺麗で、思い出すたびに愛しさが胸に満ちる。
 だけど同時に、そのたびに思い知らされる。俺はどこまでいっても冬馬にとっての他人にしかなれないことを。それもそのはずで、最初から他人だった。どうあがいても、どんなに願っても二人で一つの存在として生きることは叶わない。頭で理解していてもそれを自覚するたび、言いようのない寂しさが湧いて、身体が一つになる感覚が強烈に思い起こされて手がさまよった。冬馬が恋の喜びを持て余すように、この気持ちのやり場をどうすればいいのか分からなくて、苦しくて。

 だけど、それでも。
 それでも、冬馬。俺、自信を持って言えることがあるよ。

(俺たち、ずっと同じことを考えながらここまで来たよな)

 記憶の中の冬馬がさまよう俺の手をとって笑う。一緒に歌おうと誘ってくれてるんだ。
 それだけで、なんだか――もう、俺はひどく満たされてしまった。

 俺の肩に顔を埋めた冬馬はなかなか言葉を切り出さなかった。硬い身体は少し震えているようにも感じる。俺の身体に寄りかかった冬馬の頭を撫でれば、背に回された手がぎゅうと俺のシャツを掴んだ。くぐもった声がすぐ耳元に聞こえる。
「私もずっと好きだった、って」
「あぁ」
「これからもよろしくお願いします、って…」
「あぁ」
「……」
「冬馬。お前が一番分かっているだろうけど俺たちはアイドルだ。他の、よりによってアイドルと恋愛しているなんてバレたらあっという間にファンは離れるよ」
「知ってる」
「翔太にも教えなきゃね、まぁ感づいてるとは思うけど。何かあったら俺と翔太はできる限り守ってやる、でもどこまでできるかは分からない。責任を持つのは男の方だしそれは自分なんだ」
「分かってる」
「それでもその子が好きなんだね? ずっと守ってあげたいって思うんだね、冬馬」
「あぁ、好きだ」
「冬馬、――おめでとう」
 顔をあげた冬馬は少しだけ泣き出しそうで、慌てて離れて目を擦った。それから。

「ありがとう、北斗」

 記憶の中よりも、ずっとずっと綺麗で可愛い笑顔だった。つられて笑ったおかげか悲しみは目の随分奥に隠れてしまう。冬馬は可愛いなぁ、思った通りの感想をついこぼすと、いつまでも子供扱いするなよといつもの調子で怒鳴られた。

 恋をする冬馬を近くで見てきたあの一つひとつの瞬間。
 俺は確かに冬馬の一番近いところにいたはずだ。

 冬馬が初めて恋という名前の秘密を打ち明けてくれたときのことは今でもはっきり覚えている。それから冬馬が結ばれるまであっという間に過ぎてしまったように感じた。側に立てたのは本当に短い間だった。これからはあの子が俺よりももっと冬馬の近くに来て、代わりに俺と冬馬の距離は近づくことも遠ざかることもない。
 俺はもう前には進めないけれど、踵を返して背を向けることもしたくない。せめて幸せを祈りながらそこにいたいと思う。だって、冬馬が俺に話してくれたことや見せてくれた表情は、どれもかっこよくて可愛くて、なによりとても綺麗だから、これだけはずっと、俺だけの秘密にしていたいと思うんだ。

《了》