シロップなけれど召し上がれ

 さて、どうしたものだか。ボウルの中身をシャカシャカと軽快に混ぜながら東雲は首を傾げそうになる。給湯室内から開いたドアへ視線をやると、ソファに腰かけた握野がそわそわと身体を動かしているのが窺える。落ち着いてないのだろうと東雲は思った。同時に何をそわそわしているのだと疑問に思う。
 注目を浴び始めた315プロダクションに所属アイドルが暇を持て余して居座り続けることは少しずつではあるが段々と減ってきた。この時間だ、仕事に勤しんでいる彼らが事務所に戻ってくることはトラブルがなければまずないだろう。それとも。泡立て器を動かす手を止めて東雲は考え続ける。この状況を誰かに見られたくないのだろうか。
「握野さん」
「うぉ、な、何だ? 」
「時間の方は大丈夫ですか? もう夜ですし」
「あぁ、それなら大丈夫だ。明日は仕事、午後からだし」
「そうですか。…あと、そんなに緊張せんでもええんですが」
 だって、俺とあんたってそんな話したことねぇし、こっちが頼んでいる身だから。小さな声で言い淀む声が聞こえる。ほとんど同じ時期にデビューしましたし、それに同じ事務所の仲ですから気にしなくて大丈夫です。そう東雲が返すと、握野はありがとうと言い、そしてまた誰が来ないか不安がるように辺りを見渡したり身体を動かしたりし始めた。
 何をそんなに落ち着かないのだろう。東雲はかなり険しい表情をしていると口に出して言いたくなったが、どうやら相手のためにも時間を無駄にしない方がいいらしい。つい先ほど購入した材料を手に取って東雲は作業を再開した。

 束の間の休息だと思っていた。東雲は製菓材料専門店からの帰り途中、僅かに顔を綻ばせる。休みを自分の思うように使うというのは気持ちがいい。アイドルの世界に身を投じて忙しくなってからは尚更だった。
 カフェで働いていた時には我慢していた高い材料やより質の良い材料に東雲は初めて手を出してみた。と言ってもまずはお試し感覚で、という自制の念が働いて購入量は少ない。それでも東雲は自分の菓子作りに新しく可能性が生まれるであろうことに喜びを感じていた。名目・元パティシエ、されど血が納まったわけではない。何ができるか、何を作ろうかと考えながら事務所へ向かう道を歩いていた。
 店の名前が記載されたビニール袋の中には、しかし東雲のではないものも入っていた。業務用のホットケーキミックスである。事務所の給湯室には作りが最低限のキッチンがある。移籍当初は薬缶くらいしかなかったものの、気がついたら狭い室内にフライパンとボウルが増えていた。山村に尋ねたところ、どうやら卯月が空いている時間にここでホットケーキミックスを使ったホットケーキやマグカップケーキを作っているらしい。卯月くんが自腹で持ってきたものですからお金は気にしなくていいですよ、怒らないであげてくださいと山村は朗らかに笑っていたが、それより東雲は自身でそれだけ用意してまでケーキを食べたがる卯月の執念に呆れかえった。しかし山村は皆これからもっと使うだろうとかなり古い型だった冷蔵庫を買い替えたり、そこに夜食用の卵やハムなどを入れて元々は卯月のものだったフライパンを使ったり、さらにはアスランや神谷まで山村と共に狭い給湯室に身を収めて料理をしたり紅茶やコーヒーを淹れる始末だったので東雲は何も言えなくなった。
 しかし事の発端者である卯月は最近仕事が増えてきたせいか、事務所内で購入したケーキを美味しそうに食べたり、自身でケーキを調理したりはしていない。隙があれば作りたいんですけどね。気が向いたときにプロデューサーさんや咲ちゃん、それに山村さんにも作ってて、すごく喜んでくれるんですよ。山村さんなんて東雲さんのケーキ食べたら失神しそうです。今にも垂涎しそうな幸せの表情で卯月はそう東雲に教えた。
 東雲からしたら卯月が誰かにケーキをあげることに驚いたが、悪いことではないだろうと卯月の顔を見て思ったのだった。専門店に入ってホットケーキミックスを見かけたとき、東雲はまず卯月のその顔を思い出した。そしてすぐに、そういえばもう量は空っぽに近いはず、と気づき、次の瞬間には手にとっていた。我ながらなんて優しい、それを通り越してなんて甘いのだろう。甘やかしすぎるのが良いとは東雲は思わない。
(だけど、まぁ)
 最近、私たちは私たちなりに頑張っていますしね。どれ今度巻緒さんの作ったケーキを食べてみましょうかと考えながら東雲はレジに向かった。

 東雲が事務所に戻ると握野がソファに座って雑誌を読んでいた。室内を見渡すと握野と同ユニットのメンバーどころか山村やプロデューサーの姿も見えない。夜になったから食べに出ているのだろうか、それにしてもどうして握野だけ。挨拶をすると握野はなぜか一瞬驚いたように目を見開いて、それからどこかぎこちなさを感じる動きで挨拶を返した。
「おひとりですか?」
「あぁ、まぁ」
「他の方はどうされたんでしょう」
「プロデューサーと山村ならさっき一緒に飯食いに行ったよ。打ち合わせまであと一時間ちょいもあるから信玄と龍はまだ来てねぇ」
「ほぉ。握野さんはお早いんですね」
「えっあぁ、まぁ…そう、だな」
 東雲は握野が時間にまめな性格なのかと思ったが、握野はぎくりと身体を固まらせたあと少し顔を暗くした。こんなに早く来たのはどうやら性格に因るものではないらしい。何かあったのだろかと尋ねようとしたが、握野のその表情がとても険しく見えたものだから東雲は詮索をやめた。袋を持って給湯室に向かおうとすると、今度は握野から質問される。
「そういう東雲はどうしたんだ?」
「私は今日お休みだったので買い物に。ついでにホットケーキミックスを買うたので事務所に置こうかと」
 ホットケーキミックス? 問いかける握野の声には驚きや疑問が滲んでいた。あぁ、と東雲は袋からホットケーキミックスを取り出した。巻緒さんはケーキがすごく好きで事務所で作ったりもしているなんです。そう説明しながら東雲は卯月の無類のケーキ好きが事務所内にそこまで認知されてないのかと思い、それがなんだか少し可笑しかった。本当は好きという次元を軽く越しているのだが。しかし微かに笑う東雲の口元は握野の目には入らなかった。鋭い目つきは東雲の手元、すなわちホットケーキミックスを凝視している。
 何も返事を寄越さない握野に東雲がはてと首を傾げると、握野がおもむろに立ち上がり東雲の肩を掴んだ。東雲より少し背丈は低いものの、視線が合うだけで肌が切れそうなほどの眼光が東雲を威圧する。
「ど、どうされたのですか」
 やや動揺してしまい東雲の声がわずかに上擦った。それに気づいた握野が謝り慌てて手を離して、それから気まずそうに視線を逸らす。少し重い空気が流れたあと、握野は頭を下げた。

「東雲はその、元パティシエなん…だよな? 龍たちやプロデューサーが帰ってくるまでに頼みたいことがあるんだ」

 ボウルに量ったホットケーキミックスを投入し、東雲は泡立て器で種を、今度は優しく緩い力でかき混ぜる。横目で握野の様子を窺うと、握野は先ほどよりそわそわしていなかったものの、背を丸めて俯いている。カフェにも似たような客が来たことがある。大抵は商談が失敗したとか恋人と喧嘩したとか良くないことがあった客に見られる姿勢だ。東雲は神谷から聞いたことがあった。落ち込むようなことがあると、日頃からどんなに姿勢が良くても人の背筋は不思議と丸まるのだと。
「握野さん、つかぬことお伺いしますが何かあったんですか?」
「え?」
「先ほどから落ち着きがないようなので」
「あぁ…でもたいしたことじゃないさ」
 そうは言うものの握野の顔は明るくなる兆しを見せない。どうしたものだか。東雲は軽く溜め息をつくと握野に給湯室へ入るよう呼んだ。
「握野さんお急ぎのようですので。申し訳ないですがコーヒーか緑茶、紅茶は…神谷の物もあって種類がとても多いですからすみません、どちらか淹れていただけますか? よければ私の分も」
「いいぜ。喜んで」
「道具は上の戸棚にあるはずです。ガラス瓶に入っているのがコーヒーで丸い筒に入っているのが緑茶葉です」
「了解。…ホットケーキだからコーヒーでいいか?」
「構いません。おおきに」
 このまま握野が何か暗い感情を抱えたまま出来上がるのを待っているのを目の当たりにするのは東雲としても居心地が悪かったため、それなら作業している方が少しは気が紛れるかと思い東雲は握野に飲み物を淹れてもらうことにした。頼み事は少し気が引けたが握野が快く了解してくれたため安心して作業を再開する。しかし男二人が給湯室に入ると想像以上の狭苦しさを覚え、以前この給湯室にアスランと神谷とプロデューサーが入っている光景を見た東雲は嘆息した。
 しかし手は東雲が呆れている間も動き続ける。店では食事代わりになるパンケーキを提供しており調理はアスランの分野であったが、人気メニューでもあったために東雲も手伝ったことがあった。もはや髄に染みこんだ動作である。玉杓子で種を掬い、卯月がバイト代を貯めて買ったらしいフライパンに落としこんだ。ぼとりと音が聞こえてきそうなその光景を見た握野が驚いて声をあげる。
「そんな高い位置から落とすのか!?」
「えぇ、そうですね。そうした方が綺麗な円になりやすいです」
「な、なるほど…」
 既に挽かれて粉末になったコーヒー豆をフィルターにいれようとする握野の手が止まる。視線は余すことなくフライパンの中に注がれていた。確かについ先ほどまで肌が切れてしまいそうなほどの鋭い光は瞳の奥に隠れてしまったようだった。
 どうしたことだろう。握野の変化を疑問に思いつつも上手い言葉が見当たらないため東雲は沈黙を選んだ。握野も積極的に言葉を出そうとはしない。妙な重さを伴った沈黙に、電気ケトルが湯をこぽこぽと沸かす音が鳴り、あとから重なるようにコーヒーの香ばしい匂いが給湯室をほのかに甘く満たした。ふわふわと漂いだす湯気に東雲は、神谷の選んだコーヒー豆は苦みがほとんどなく、むしろ優しい甘さがほのかに感じられるとても飲みやすいものであることを思い出した。

 クリーム色の生地の表面に小さな気泡がふつふつと現れだす。もうすぐ片面が焼きあがるのだ。おぼろげな形しか残っていない幼少時代を思い出すその色と形に、東雲の口は自然と開いた。
「握野さん、愚問かもしれませんがホットケーキお好きなんですか?」
「え、…まぁ、そうだよ」
「なぜそんなに気まずそうな顔されるんです? 私もホットケーキは好きですよ」
 引き出しからフライ返しを取りだして、生地のしたに差し込むと躊躇うことなく引っくり返す。おぉ、と感嘆の声が握野の口から漏れた。躊躇うことなく生地を裏返すのは綺麗な形に焼きあげるための必然の動作でもある。しかし東雲やアスランがそれを当然のようにやってのけると、水嶋や卯月は必ず今の握野のような声をあげ、瞳を輝かせながらもう一回とねだるのだ。顔の似ている似ていないではない、同じだと東雲は思った。握野の仕草に自然と頬が緩む。自身のお菓子を喜んでくれる者を見ると、これはサービスではないと何度も言い聞かせても心がくすぐったくなりつい色々と許してしまいそうになる。何度も自身のケーキをねだる卯月にでさえもだ。
「お好きであるなら、また時間のあう時にでもお作りしますよ。今よりもっと時間があれば、何枚も重ねたものや生クリームやチョコレートシロップをかけたもの…間に果物を挟んでもいいですね。とにかくホットケーキだけでも色々お作りできますが」
「えっ」
 珍しく口がよく滑る。そうさせるのは握野の先ほどの険しい瞳とホットケーキを目の当たりにした時のあの表情だろうか。喋りすぎたと東雲は我に返り謝ろうとしたが、握野が先に口を開いた。一瞬子供に負けないほど輝いた瞳は伏せられている。
「いや、だってその」
「…何でしょうか」
「あのさ、」
 やっぱこういうの好きなの、この顔に似合わないと思って。恥ずかしいから黙っていたかったんだ。
 フライ返しを再度差し込み、側に用意していた皿に焼きあがったパンケーキをそっと乗せる。二枚目はスピードが少し大切になってくる。一枚目が冷めないうちにと東雲は残った生地をフライパンに落とし込んだ。返事を寄越さずに作業を黙々と続ける東雲に握野は声をかける。すぐに問答無用、有無を言わさない強い口調の言葉が返ってきた。
「握野さん。誰だって好きなものは好きだと言って良いんです」
「東雲」
「私は、私の作ったお菓子を楽しみに待っている方を見るとそれが誰であれとても嬉しくなりますよ」
 涼しげな顔に険しさは浮かんでいないが、諭すような口調はどこか恐ろしくもあり腹に来るような重さがあった。耳が少し熱くなるのは湯気のせいではない。母親に叱られたみたいだと握野は思った。気まずさのやり場に困り、頬を掻くことしかできない。しかし東雲は気にせず握野に微笑んだ。さぁ、と催促をするように呼びかける。
「二枚目はあと五分もしないうちに焼きあがります。握野さん、コーヒーが淹れ終わったら向こうのテーブルまで運んでください、あと、ナイフとフォークも」

「握野さん、あいにく蜂蜜しかないのですがよろしいですか?」
「大丈夫だ、ありがとう」
 やや値は張るものの、メープルシロップを用意してやれば卯月も握野も喜ぶかもしれないと考えながら東雲は握野の座る席までホットケーキを持っていく。焼きたての生地にしか見られない湯気が握野の目の前にたったとき、握野の顔は確かに華やいだ。キャップをあけて蜂蜜を遠慮することなくたっぷりかけると、きつね色に黄金色のきらきらした輝きが重なって、上に乗りきらない分が二枚分の厚さを覆うように横へ垂れていく。
「すごいな。俺も自分で作ったことあったけどこんなにふっくらしなかったぞ」
「少し工夫するだけでうまく膨らむやり方があるんですよ。漫画みたいなものを作るには型が必要になりますけどね」
 キャップを閉じて、東雲は向かい側に座った。目の前には握野の淹れてくれたコーヒーがある。上等じゃないか。何がどうというわけでもなく東雲はそう思った。手で皿を示して声をかける。
「どうぞ召し上がってください。温かいうちが美味しいと思いますので」
「…本当にありがとう。いただきます」
 しっかり手を合わせてから握野はナイフとフォークを手にとった。ホットケーキにナイフを刺し込むと、ふわふわとしたきめ細やかな生地に銀色が沈んでいくのが見える。食べやすい大きさに切ると蜂蜜が皿の余白へ垂れた。甘い方がいいという考えの握野は垂れた蜂蜜をフォークに刺したホットケーキで掬いあげてから口に入れる。
「…うまい」
「そうですか。それなら良かった」
「いや、本当に美味しい。ありがとう」
 一度食べると止まらない。握野は自分の淹れたコーヒーに口をつけずに無我夢中でホットケーキを食べ進める。東雲はコーヒーを飲みながら、ふとホットケーキに合わせるならどんな香りのコーヒーや紅茶が良いだろうかと考え始めた。再び沈黙が生まれる。外は既に暗く、ビルの窓から漏れ出る電気の光が夜を照らしていた。
 あっという間に半分以上食べ進めたところで握野がようやく口を開いた。
「でもこれ、店で食うやつより甘くないんだな」
「そうですね。今日買ったホットケーキミックスは業務用だからでしょうか、香料などは入っていないはずです」
「そうなのか。でもあまり甘すぎると途中で胃もたれしそうになるんだ。今日行こうとした店は――」
 そこまで言って握野は気づいたように口を固まらせた。東雲はその様子をじっと見つめる。コーヒーの入ったマグカップをコトリと机上に置き、少し呆れたように溜め息をつく。人差し指の先でやや神経質にコツコツと机を叩いた。
「…打ち合わせが始まる前に一人で行こうとしたんですね。その様子だとお店、開いてなかったんでしょうか」
「あーそうだよ! で、でもこういうのは一人で行きたくなる時もあるんだよ! …たまに入りづれぇけどさ」
「だったら木村さんや信玄さんもお誘いすればええんです」
 当然のことのように言い返す東雲に握野はとうとう何も言えなくなった。長い溜め息をついたあと、観念したように首を振り、そして緩い笑みを浮かべる。ホットケーキに落とされる視線は、しかし誰かのことも一緒に思い浮かべているに違いない。東雲はそう確信する。
「確かにな。あいつらと一緒に食ったら騒がしそうだ」
「そうかもしれませんね」
「いつ誘えるかな…最近やっと忙しくなってきたからな。随分先のことになるかもしれねぇ」
「いいえ、…きっと、あと三十秒後とかやったりするかもしれませんよ」
 入口のドア越しに近づいてくる声は決して一人だけのものではない。二人、いいや恐らく四人だ。東雲は賑やかな声がより騒がしくなることを予想しつつ、さて次は何枚焼こうかと席を立った。

《了》