砂上の星(再録) - 6/9

 彼の手を引いて寝室へ向かう。桜庭、と僕を呼ぶ声が未知への期待と不安に上ずって弾んでいる。ドアを閉じれば明かりは窓から時折差し込む雷光のみだった。外でずっと降りしきる雨は革命前夜に誂えたかのようで、吉兆よりも不吉さが勝る。何か悪い予感に急かされて天道を抱き寄せれば、雨に打たれて濡れた彼の身体は、それでも前に僕の過去を話した際に触れた手よりかは熱かった。
 天道はおずおずと僕の様子を気にしながら背中に手を回す。その動きを確認してますます強く抱きしめると、すぐ耳元で天道の息遣いが聞こえた。
「初めて、さ」
「なんだ」
「初めてこの家に来たときも、抱きしめてきた」
 思わず彼の顔を見ると、ほんのわずかな光でも吸い込む天道の瞳は赤みを増しているように見える。なんちゃって、と喉で悪戯っぽく笑う声が一瞬で闇に消えていく。雨で額に張りついた前髪を払うと、露わになった眉尻を下げて笑うその表情は今にも崩れて泣き出しそうにも見えた。
「好きだ」
 その言葉を合図のようにして、どちらからともなく口づける。間近に受ける他人の体温に、嫌悪感とはまた違う感覚で思わず眉をしかめた。 ただそれにも関わらず衝き動かされるままに天道へより深く口づける。二人で抱き合っているはずなのに、お互い力を相手にぶつけているせいで支えを失ったようにふらつく。よろめいたまま半ば無理矢理にベッドの方へ向かい、そのまま押し倒す。
 見下ろすと天道の顔と、それと息をするたびに上下に動く喉がよく見えた。些か乱暴に押し倒してしまったせいでぐしゃりと崩れた髪に申し訳なさを覚えて、軽く梳くように指を通せばくすぐったいのか目を細めて顔を逸らす。
 天道はもう一度目を開いて僕を見ると、手を伸ばして頬に触れてきた。指先はとても熱く、触れたところから火傷を負うような錯覚に陥る。彼の指は僕の肌を辿り――眼鏡の蔓へ辿りつく。
 やめてほしいとは微塵も思わなかった。眼鏡を外されて、それだけで大袈裟なほど身体が軽くなった気がした。両目で天道を見るのは初めてだったが、視界自体はほとんど変わらないうえ、何も通さないことにより全てに靄がかかったかのような見え方になる。ピントがうまく合わない中でどうにか天道を捉えると、天道は――濡れた瞳の表面が波打ったかと思えば、腕を目の前に持っていき顔を隠した。
「どうした」
 退けようとして天道の腕を掴むと震えが伝わってきた。天道が一度大きく息を吸う。とても近くにいるからだろうか、入り込んでくる空気に反応するように胸のあたりまでもが震えたのがよく伝わった。血が滲むかと思うほど唇を強く噛みしめて、隠すように構える腕から覗いたのは、頬を伝い透明に煌めく軌跡だった。
「なぜ泣く」
「…っ」
「君が泣くことではないはずだ」
 腕と顔の隙間に手を差し込んで、目許を探り当て涙を拭えばようやく腕を退けた。涙を溜めた天道は僕の動きを真似るように目許を指でなぞる。彼の指は相変わらず細かな傷がついているらしく、かすかに引っかかるような感触を僕の肌に残していく。心の思うように泣きたいだろうに、天道は無理に笑顔を僕に作って見せた。
「ずっと」
 目からは絶え間なく涙の粒がゆっくり、天道の頬を滑り落ちていく。
「ずっとずっと…桜庭のこと、見たいって、思ってたんだ」
 絞りだすような声だった。すまん、と告げて乱暴に涙を拭うその手を取る。指を絡めて、空いている手で天道の前髪を掻きあげると、闇の中でも彼の輪郭がよく分かった。涙に濡れる瞼に口づける。唇を滑らせて頬を撫でれば、この国を抜けるとあると聞く海の味がした。
 もう一度唇を重ねる。招かれるように口を開かれて、そのまま辿り舌を絡ませた。
「ん、ぅ」
 互いの温度が繋がって、喉を震わす彼の声が漏れた瞬間、頭の芯が痺れる感覚に見舞われる。服に手をかけて雨と汗の混じる素肌に直接触れれば、息をするたびに動く天道の熱がそこにあって、触れている指先から一瞬にして身体へ広がった。
 舌を吸い上げると二人のちょうど境目で水音がした。少しだけ目を開けば天道は眉間に皺が寄るほどきつく目を閉じており、目の端には涙が貯まっていた。僕の首にしがみつき、がむしゃらに舌を絡ませるその様が、これからすることの未知さに対する恐怖など見ないふりをしているようにも見えて痛々しさを覚えてしまう。
 一度唇を離し、シーツと擦れるたびに乱れていく天道の髪を撫でる。水分を含んだ天道の髪はやわらかく、水滴が指の間について濡れた。
「嫌なら言え。身体は費やすものではない」
「費やすなんて言い方すんな。嫌だったらまずここに来ねぇよ、…来たかったんだよ」
 涙で濡れた瞼がわずかに腫れている。労わるような気持ちでもう一度口づければ、その時を待っていたかと言いたげにゆっくりと閉じられた。額をくっつけると互いの抱えている熱がよく分かる。夜は長いというのに、今も空が荒れて晴れ間の臨めないことが、どう転がるか先の見えない未来がどうにも良くない予感ばかりを喚起させて、何とかならないものかと足掻くような性急さが僕と天道の間で隠しきれずにいた。
 シャツを脱がすと、空気に触れる面が増えたせいか天道が身体を震わせた。寒そうな様子に勝手に腕が伸びて抱き寄せる。先ほど抱きしめたときよりも鼓動を打つ音がはっきりと聞こえて――思わず顔をしかめてしまう。他人の体温にあてられたせいだろうか。初めて間近に意識する天道の温かさに、不快感では決してないものの、苦味に似た何かが内にじわりと染みのように広がって思わず胸を押さえた。
「桜庭?」
 不安げな天道の声に呼び戻される。縋るように僕の袖を掴む天道を寒かろうと思い、僕自身もシャツを脱ぎ身を寄せようとする。それよりも天道が腕を伸ばす方が早かった。視線も僕の身体を見ているらしく、いったい何だろうと天道の視線を辿ると、手のひら程の大きさもない傷跡があった。それだけで天道の意思に納得して、傷に触れる彼の手を離そうとするが軽く抵抗される。
「そんなたいしたものではない。とうの前に完治したものだ」
「…桜庭、どれだけ」
「それ以上話すな。…明日からいよいよだと言うのに余計なものを見せてすまない」
「いや」
 天道は笑った。先ほどから目に涙が貯まっているせいで泣き笑いの表情に崩れて、天道の本音が見えなくなる。怖くは、ないのだろうか。今からする行為も、明日からの自身の日常も。誰よりも怖くてもおかしくないのに、天道は軍が遺した禍根とも言える僕の傷跡も左目も見たがっているのだ。
 これを、――天道が僕を求めてくれている以外の言葉で説明できようか。そして、僕も同じ気持ちであることを、どうやって否定できるだろう。互いに全く別の性質を持った人間同士なのは違いないはずなのに、同じ熱を秘めていること、そしてその熱に直に触れたいという願いが確信めいたものであることが、喜ばしいはずなのに、激しい嵐と共にやってきている良くない何かが共有の喜びを憚らせてしまう。
 目の前に天道がいるから近寄る陰の存在を、今だけは見たくなかった。露わになった天道の胸に手のひらを乗せると指先から微かな振動が伝わる。血が、天道を衝き動かしてきた熱い血が確かにここに通っている。そのことに得も言われぬ甘みと苦味を覚えた。
「桜庭、あつい」
 さわって、と強請る声は絞られたように細く、少し高い。天道の乞うままに手のひらすべてで胸に触れると、汗と雨に潤う肌の感触がよく伝わった。身体を重ねるように倒れて、もう一度頬、そしてそこから喉へと唇を滑らせる。喉の一番隆起したところを軽く吸うと天道が身体を少し反らした。さらに下って、天道の鼓動が一番伝わる場所――心臓のあたりにキスをする。
「ん、ん」
 天道の呼吸が震えて少しずつ不規則なものになっていく。舌で愛撫すれば大きく息を吸うのが直に伝わった。
「あっぁ、桜庭、ぁ」
 空気に晒されている色々な部分に何度も唇を寄せる。皺が寄るほど必死にシーツを掴む天道の手を割って開き指を絡ませ、皮膚をなだらかに浮かす鎖骨を空いた手で撫でれば天道は甘さを含んだ声をあげた。僕の髪が肌を軽く撫でるのにも天道は逐一反応し、視線を顔へ向ければ眉間に皺を寄せ唇を噛んでいるのが見えた。
「んっ、ぅ…あ、ぁ」
 臍下に近づくほど熱が高まっていく。ベルトに手をかけると天道が僕の手を掴んで止めようとした。眉尻をすっかり下げ困り果てた顔をしたものだから思わず口をついて問いが出る。
「今更恥ずかしがっているのか?」
「お、お前…は、恥ずかしいに決まってんだろ! そういうことしてんだから!」
 自分で脱ぐ、と怒ってベルトを外そうとする天道の手は、緊張からか羞恥からか細かく震えていてなかなかうまくいかない。さらには本人の躊躇もあるのかベルト自体が解けても一向にズボンを脱ごうとはしなかった。
 恥ずかしいから、とでも言いたいのだろうか。俯いてすっかり黙ってしまった天道の頬に触れてみると、先ほどよりもずっと熱い。気持ちは汲んでやりたいが、埒が明かないのは間抜けだ。無理にズボンを引きずり下ろす。
「あっやめろって、っ…」
「……」
「見るな…」
 ズボンを脱がす際に一瞬指が引っかかった。目線を下ろすと、どこよりも高い熱が下着を内側から押すように膨らんでいる。天道は気まずそうに俯いたが、そんな態度を見ても、僕は何をそんなに、とやはり呆れてしまい溜め息をつく。天道は下がりきっていた眉をキッと吊り上げ僕のズボンに手をかけた。
 してやったり、という顔で笑っている割にはなかなか脱がせられないようだ。ただの皮肉めいた思いではあるが、過去の傷を見られた以上、ここまで来ておいて今更隠して恥ずかしがるのは無意味だという思考があった。まごついた手つきで止まっている天道の手を剥がし、蒸し暑さを抱え込んでいたズボンを脱ぐ。あっけなく脱いだせいで勝ち取った、とでも言いたげな天道の笑みは一瞬にして消えて、そんな彼の分かりやすすぎる態度にとうとう呆れてしまった。
「何がそんなに気に入らないんだ」
「さ、桜庭なんでそんな余裕そうなんだよ!  俺ばっか…」
「君だけだと思うか」
 天道の手を取り自身の胸へ当てる。僕自身の鼓動も天道の後を追うように確かに速まっていた。誰かを想って熱くなった血が身体中を巡るこの感覚を、他でもない天道に否定されたくなくて、手に力が籠る。
 暗い中でよく見えないが、先ほど触れた頬の温度を思い出すと、天道は今赤面しているのだろうか。色は分からなくても、光の具合は充分目に見える。すっかり荒れた外からの光しか頼れる明かりはないが、その光の全てが天道の赤い瞳に反射して煌めいていた。天道の、不安とは他に何か別の感情が混じった泣き出しそうな顔にそっと顔を寄せて、何度目かも分からない口づけを交わす。無闇な性急さに任せて乱雑なものにならぬよう、互いにゆっくりと重ねれば圧し返されるやわらかさは小さな吐息混じりだった。
 唇を離し、最後に纏っていた下着も脱がす。桜庭、と天道が僕の腕を掴んで小さな悲鳴をあげた。彼の体温が不安に冷えてしまう前に僕も脱ぎ、そっと抱き寄せる。首に顔を埋めれば天道の鼓動がいよいよ間近に聞こえて――また顔をしかめてしまった。不快なわけではなく、ましてや嫌であるはずがなかった。心臓の音など医者になってから数多の人間のものを聞いてきた。それなのに、――天道の鼓動だけがこうも僕の感情を乱してしまうのだ。
 人は鼓動を聞くと本能のどこかが安らぎを覚える生き物だという。速く熱い天道の心臓の音を聞いていると、ずっと人と離れて暮らしていたせいで心の強張っていた箇所が確かに和らぎ安心を覚えていた。だから――手放したくない、と思ってしまう。数時間もすれば、天道はここを去り、戻ってくるかも分からないと言うのに。天道は、果たしてどこまで僕と同じだと言うのだろう。答えなど想像もつかなかった。
 首に抱きついて離そうとしない天道の背に片手を回しつつ、もう片方の腕でナイトテーブルに手を伸ばして引き出しを開ける。何もないよりかは遥かにましだろうと考え、寝る前いつも手の保護に塗っているクリームを取り出した。蓋を開けて指にとり、体温でゆるく融かす。天道は僕の指先に注視して不安げに息を荒げていたが、ふと微かな笑みを浮かべた。
「桜庭の指、綺麗だな」
「いきなり何だ。…指に傷がついて診療の感覚が鈍るのを避けたいんだ」
「そうなのか、初めて聞いた。…俺、お前に聞いてないことまだ多、っぁ、あ、ん…!」
「…力を抜け」
「あ、ぁ…!」
 すっかり熱を帯びた彼の性器を、クリームの油がよく馴染んで滑りやすくなった手で軽く扱けば、天道は表情をぐずぐずに崩し背をしならせた。そのまま、これから入ろうとしている箇所に指を伸ばし、割るように少しずつ奥へ進ませる。背中に痛みが走る。天道が僕にしがみつき爪を立てたらしい。気に障るような痛みでは全くなかった。
 はぁ、と天道が短く息をつけば指は締めつけられる。――怖くないはずが、ないのだ。誰よりも怖い状況に置かれているとも言えるのに、天道は嫌がるような言葉を一切吐かない。抑えつけられた彼の本音に応えるために、僕からは何ができるのか。
 天道の温度と心臓の音に直接触れてから溶けるように霧散しそうになる理性を、天道が先ほどそうしていたように唇を噛みしめて堪える。少しずつ天道の奥へ指を進ませれば熱さとあたたかさの境に沈んでいった。
「っう、ぅ、ん…ぁあ、あっ!」
 痛みの中に快楽を見出したのか、天道の声色が艶やかさを帯びてあがる。反れる喉へと惹かれるままに口づける。僕の下で天道の身体がびくびくと震え、その様が怯えているようにも思えた。彼の中に入れている指の数を増やす。たちあがった天道の性器が腹のあたりにぶつかり、先走りで滑り表面を撫でていった。
 ――あぁ、熱い。感じたことのないほどのどうしようもない熱が僕の胸で渦巻いている。汗が顎を伝い千切れ、天道の肌の上へ落ちていく。それにすらも天道は身を捩って喘いだ。僕の襟足を掴んで天道が身体をくっつける。僕の耳朶をなぞって口づけて、整わない息に乗せて掠れた言葉を紡ぐ。
「も、もういれて…っいれてくれ、桜庭」
「天道…」
「さくら、ば…っ、桜庭が、ほしい…」
 指をゆっくりと引き抜こうとすればクリームと体液が混じりぬるついた感触が締めつけ、彼がそうしているのか、彼の身体がそうさせているのか、なかなか離そうとしない。次へ進むには早急すぎる気がして逡巡する。既に色々な感情を抑え込んでいるであろう天道の身体を、僕のできる限りで優しくして、心もくるんでやりたかった。
 それなのに僕の思いなど知らないとでも言いたげに天道は、僕の腰とぴたりとくっつくように腰を浮かす。もう一度天道の顔を見ると、汗が彼の目許近くへ落ちていくのが嫌にゆっくりと見えた。熱すぎるくらいの手のひらで頬を挟まれ、口づけられる。
「…身体を費やすな、と言ったはずだが」
「嫌だったらここに来てない、って答えたはずだけど」
 ゆっくりと笑みを広げたその唇の動きのみで、きて、と招かれる。くっつけられた腰をずらして、天道の内側へ少しずつ入っていく。最初こそは滑らかだったものの、すぐに動きが止まる。馴らしきれていない体内が容赦なく締めつけてきて、侵入を拒んでいるようにも思えた。
「っあぁ、あ! はぁ…ぁ、うぁ、あ!」
「…っ」
「あ、さくらば、ぁ!」
 きついものの、身体の表面では決して得られない、ひどくやわらかな熱がそこにあった。腰を進めていくと、僕と天道の熱の境目が分からなっていく。凹凸の少ない同性の身体同士を重ねても、そのままでは胸や腹に隙間ができるのがどうにも気になり、指と指を絡めれば天道はしがみつくように握り返してきた。
 胸と胸がくっついて、心臓の音が重なるように鳴る。腰を動かせば水を浅く打ったような、体液が擦れる音が鳴って、あんなに大きいと思っていた嵐の音などとうに遠ざかってしまったと思えた。どくどく、と強く早く脈打っている心臓はどちらのものだろう。確かに僕のすぐ傍で脈打つ――命の音に、そんな原因に成り得る理由などないはずなのに、互いに身体を通わせる悦びが阻まれている気がした。
 稲妻が近くで鳴る。まばゆく光った部屋の中で天道の顔は汗と涙で濡れきっていた。拭いてやるがしとどに濡れて僕の手では掬いきれない。なぜ、と思ったときに、天道が僕の目許へ指を添わせた。彼の指先を伝って腕へと雫が伝っていくのがよく見える。
「泣くな、桜庭」
「…は、何を」
「今は俺しかいない。…俺にも、桜庭しかいないよ」
 くしゃりと顔をしかめて、天道は泣いた。何もかもの感情で満ちた頭で、腫れてしまっては、とそれだけしか考えられずに涙を掬う。それを押しのけ、天道は手のひらで自分の目を塞いだ。隙間からこぼれる涙の粒が天道の顔を滑り落ちて止まらない。

「もっと、――違う時に出逢えていれば」

 夢に塗れて浮ついた希望が天道の口からこぼれてしまう。聞いているだけで胸の内を切り裂かれるような、悲痛な声だった。
 叶わぬことを口に出すなど、僕にとって許しがたい行為だ。夢を口にする余裕があったら、その時間で実際に行動をとった方が遥かに建設的だと思いながら生きてきた。近づきたい理想のために、左目までも犠牲にして、不本意な存在に命を奪われることに怯えるのに屈辱を感じながら、それでも生きてきた。
 だが、僕に天道の夢を否定することなどとてもできない。できるはずがなかった。紛れもなく、僕も彼と同じ、二人で生きる道を夢見ていたせいだった。
 違う時、と天道は口にした。どうして今の時代に出逢ってしまったのだろう。もっと違っていたら、僕たちの形はどうなっていただろうか。想像しても仕方がない、ただの夢物語だ。それでも、――天道の涙を止めたいと思うのも、心を止められず、ずっと傍にいたいと願ってしまうことも、その全てが言葉にできなくたって、僕も天道に、――こんなに恋をしているのに、未来を望む気持ちが生まれて揺れ動くのが、ひどくつらい。
 見えぬ先の暗闇を辿り、希望を抱きながらも否応なしに見える現実に震える天道の身体を抱きしめる。
「君は死なない、絶対だ」
 ほとんど祈り同然だった。どこにいるかも分からない神の気配に、無様でもいい、縋りたかった。涙を隠す手を解いて、天道は僕にしがみつく。二人を繋ぐ間は熱く、体温は確かにここにある。
「今、でなかったら逢えなかった」
「桜庭…っ、さくらばぁっ」
「だから、――そんなこと言うな」
 僕らの鼓動よりも強くなった雨を打つ音が部屋を満たしていく。空を覆う黒い雲の行き先も、僕らの未来も分かりようがなかった。ただ、一番近いところで重ねている熱だけは間違いないことだけを、今だけは都合良く信じていた。

 瞼に映る景色が眩しく白んでいく。――革命前日の朝が来たのだ。身を起こし眼鏡をかけ、まず第一の心配事である軍の巡回を思い出す。ナイトテーブルに置いた時計を確認すると、まだ陽が少しだけ顔を覗かせたばかりの時間だった。まだ軍が来るにはしばらく時間がかかるため、ひとまずの安堵を覚えた。
 大人二人には狭すぎるベッドで身を寄せ合うようにして天道と夜を明かした。とても大きな嵐が来たようだったが、嵐の次の日は必ず晴れる。呑気ですらあるほどの日差しに乗って、鳥の鳴き声が聞こえた。
 僕の横ですうすうと静かな寝息を立てている天道の顔は陽に照らされて、あの夜だと見えなかったものがよく分かるようになった。やはり瞼は赤く腫れてしまっており、身体にも瞼と同じ色の跡が残っている。喉から胸あたりにかけて濃い赤色が点々と残っており、起こさぬように指で触れれば、天道はくすぐったそうに少しだけ身を捩って、またすぐに眠りへと落ちていく。申し訳なさが募るとともに、昨晩のあられもない姿をぼんやりと思い出していた。
 嵐が置き土産に眩しい日差しとと静けさを残していった朝だった。昨晩、天道と共有した時間は、視界があまり良くなかったのもあって、本当に夢か幻のようだったと思えてしまう。それでも、横たわる体温が確かに傍にあった。それだけで惚けるような満足感を覚えた。
 こんなに満ち足りた朝はいつぶりだろう。すぐに思い出せないせいで、僕の中で幸せとイコールで結ばれた、家族と暮らしていた記憶を引き当ててしまう。幼い頃は姉もまだ元気で、家族揃って、この国からは遠く離れたところで暮らしていた。姉が亡くなり、僕は医者になるためにここに来たのだが、それ以来故郷への郷愁に浸る機会などまるでなかった。
 はっきりと細かいところまではもう思い出せなくなってしまった姉の笑顔が浮かぶ。姉は僕が日常の他愛もない話をするだけでも大袈裟に喜び、ただ会話の中でも、僕の歌をよく褒めた。薫は声が綺麗だから、と笑みを湛えていて、果たして僕はどんな歌を歌っていただろうか。
 曖昧な輪郭でしかないメロディラインを繋げて、朧げな記憶を探りつつ歌を口ずさんでみた。こうだったか、もう少し違っていただろうか――、あやふやな歌声に別の声が交じる。
「いい歌だな」
 気がつけば目を覚ましていた天道が身体をこちらに向けて僕を見ていた。いったいいつから起きていたのだろう。気まずさを覚えたが、今更恥ずかしがるようなことでもないと思い至る。
「僕の故郷でよく歌われていた歌だ。曲名も作詞も誰がつけたのかは分からない」
「そうなのか。俺もそういう故郷の歌、まだ覚えてるぜ」
 身を起こした天道が目を閉じて静かに歌いだす。陽気なメロディはそれだけで天道がどんな環境で育ってきたかを伺わせた。そのまばゆさに思わず目を細める。ただ、彼は最後まで彼らしく、覚えてるぜ、と豪語した割には所々つっかえたりリズムが崩れたり、一つの曲として成立しているかと問われれば微妙だった。
 それでも歌い終えた天道は満足げに笑う。相変わらず笑みは機嫌の良い子供みたいだった。革命を起こす張本人だというのに、この日差しと同じで妙な呑気さを感じた。いつもだったら呆れていただろうに、この呑気さがいつまでも続けばいいと、僕こそ子供めいた幼稚な願い事を胸に抱いてしまったのだ。