注射で静脈に薬を流し込む感覚をよく覚えている。目では分からないほどの速さで、だが確実に身体から力が抜けていくのだ。元々死んでもおかしくのない状態なのに、最後の余力を振り絞って伝えるのは僕への感謝の言葉である場合がほとんどだった。他に何か言いたいことがあったのかまでは今でも分からない。そうやって兵士を看取ってきた。何人看取ったのかもう、分からなくなってしまった。
人間の一生がどれほどかを計ることはとても難しい。だから今のこの瞬間も、命は少しずつ削られているのに、終わりなど知りようもないから、周りにいる人間は自分と同じように生きていられると当然のように思ってしまうのではないか。僕もそうだと思っていた。姉が亡くなるまでは。
姉の死がまだ幼い時分だった僕に与えた衝撃は大きなものだった。姉の死ももちろんだが、昨日まで笑っていた人間が翌日指先一つすら動かせなくなるという事態がこの世では起きうることが、その頃の僕にとっては信じがたいことだった。
当時、姉の死因はとても珍しい病気で治し方が判明していないものであると両親から説明を受けた。無力を噛みしめる医者が悔しそうに拳を握りしめていたのもよく覚えている。ただ、仕方がなかった、という空気が全体に流れていたのに、僕だけが一人、誰の手も及ぶことのできないどこかに取り残された気分だった。
自分の残っている限りの姉の思い出をなぞっても、病に苦しんでいる様がほとんど思い出せず、僕に向かって笑いかけている顔ばかりが浮かんだ。そのせいか、姉さんを見送りなさいと言われた葬式の日のことはほとんど覚えていない。笑ってばかりの姉が亡くなったことが信じられない思いにとらわれて、ただ頭は確かに姉の死を理解できているほどには冷静だった。あの頃、はっきりとした感情が涙や慟哭などの形で発露できていればまた違っていたのだろうか。どうにも整理のついていない胸中を抱えて、姉の思い出が美化されることもなく、僕はとうとう医者になるところまで来てしまった。
姉の身体を蝕んだ病を根絶したかった。医者になる以外の道を考える余地などまるでなく、その執着は復讐にも似ていた。ただ、僕が成人し医者の肩書が許されるようになっても病の治療方法は確立されていなかった。国に配属が決められた病院や、その頃には既に軍の検閲が入り限られた資料しか置かれていない図書館で文献を読み漁る日々。時間も金も足りなかった。そんな時だった、軍医へ誘われたのは。
国の中で一番の権力を持つ軍の医者になることを選ぶのに時間はあまりかからなかった。病気を研究するのに机上の空論ばかりではおられず、薬品も器材も施設も欲しかった僕は多くの金が手に入る職を選んだのだ。今思えば、目が眩んだに過ぎなかったのだが。まず初めに今の家を与えられた。軍が僕に権威を与えたのだ。大きい顔ができるかもしれないことには全く興味がなく、当時の僕はこの先得られる金で何ができるかということをずっと考えていた。
もちろん与えられるばかりではない。場所が変わったくらいでは仕事の内容自体はあまり変わらなかった。ただ、対象患者はがらりと変わった。国外に送り込まれて負傷した兵士たちが僕の患者になった。
そこで思い知らされたのは、今まで僕のいた世界がいかに局地的であるかということだった。どんな医術書でも見たことのないような怪我を負う兵士たちに、国外で何が起きているのかを考えると背すじが凍る思いだった。
空が少しずつ煙に覆われて暗くなっていく日々の中で彼らの様々な顔を見てきた。死にたくないと悲痛に叫ぶ者、軍への怒りを露にする者、もう楽になれると穏やかに微笑む者…死を目前とする人間も多く見てきたが、果たして姉はどのような心境だったのか。姉のことばかり考えずに来た割に、医者としての心構えは曲がりなりにもできていたらしい。もう助からないのかと切り詰めた声で懇願されたときには無念の極致に至り、助けてやれるのなら何でもしてやりたいという、まったくもって無謀な憧れが生まれてしまった。
果たして僕の本当の目的は姉を亡くした病を根絶するところに留まるのだろうか? 軍にいることで確かな権威と金を与えられ、軍医になる前までに比べれば、病について新たに分かることも少しずつだが増えてきた。ただ、街を歩けば高額な医療費に治療を受けられない人間を多く見受けられることへの疑問が少しずつ募ってきたのも事実だった。逆らえない権威の前に口を閉ざし、ゆるやかに悪化へ近づいていく病状を受け入れるばかりの人々を見ると、病に対して何も言わなかった姉を想起させられて、どうにも耳を塞ぎたい気持ちにさせられた。
今まで自分が正しいことのみを信じて医者になったのに、その医者の在り方を自問する日が来るだなんて思ってもみなかった。姉を蝕んだ病を治したい気持ちは微塵も消えていない、だから研究・治療をするための金が必要だった。だが、この場所で感情を露にする軍人と、軍についている僕が怖いのか僕に畏れ多いと言わんばかりの態度を持つ街の病人たちを見ていると――どの形が最善なのかが分からなくなる。それは確かに「迷い」という名前を持った気持ちだった。そんな迷いが生じたときだった。軍医の中で最高の地位を持つ医者がある薬を開発したのは。
色は無色透明。かすかに甘い香りがするそれは死への誘いを示している、と思うのは詩人めいているだろうか。静脈に注射して数時間後、文字通り眠るように息絶えるのだ。苦しまず、そして迷わずに死に迎えるこの薬を周りは絶賛した。医療費削減のために、もう助かる見込みのない負傷兵に打つことが、僕の仕事の一つになった。
苦しまずに死ねることが幸か不幸かなど僕には分からない。もう痛い思いをしたくないのか、注射の際には感謝の言葉も多くもらった。ただ、僕のやるべきことはこれではないという意識が、この時点ではっきりと芽生えたのだ。誰の力を借りずとも姉の病を研究し、必ず根絶してみせると決意がここで新たに固まった。
金などとうに惜しくはなく、むしろ酷いけがを負う軍人たちはこの先もこうして息絶えていくのかの方がよほど懸念点になった。彼らに背を向けることになるのではないかとずっと考えていたのだ。可能であれば彼らも、死の方向へ案内するだけではなく、別の良い方法があればそれで救いたかった。姉の病の根絶が目標であるならば、これは僕の医者としての在り方だ。――僕は天道のことを馬鹿にできる素質など一つもない。本当にひどい夢物語を描いていた。
機密事項を多く背負いながら軍を抜ける責任はどう負うのだと僕に問うたのは怪我を負った軍人ではなく、軍という巨大な組織そのものだった。命さえ失わなければそれで良いと僕は答えた。自分が死んだら本末転倒だ、それ以外はどうでもよかった。
軍にいたときの最後の記憶は、ナイフが反射したときの嫌に鋭い光。医者がいなくなる分こちらも手薄になる、眼病でも研究できるものがほしい、などと言った嗤いは酷く下卑たもので、棒や拳で散々打たれたのちに取り押さえられた僕はそのナイフが静かに左目に近づいてくるのを見るしかできなかった。しかしそんな状況にも関わらず相手への軽蔑がどうにも勝り、不思議なほど恐怖を覚えなかった。ここまでが、最後。痛かったかどうかなど覚えていない。そんなことは今の僕にはどうでもいい。
身体さえあれば良いと思った結果、僕は今も軍から与えられた家で軍の冷たい気配を感じながら生きている。家を出ようと何度も思った。ただ、深く考えずとも、この国勢で国外に出ることは無謀であり、また閉塞的なこの街で別の場所を探し出せてもすぐに見つかるだろう。だったらこの、一人で暮らすにはあまりに広い家を使って、病に苦しむ人々を救おうと思ったのだ。それが、この街での僕の最大限できる生き方だと思った。
誰かが見れば惨めそのものの暮らしだろう。それでも僕は、軍にいた頃の生活を悔いることはない。ただ、一人でひたすらに燻っていた。
「桜庭」
僕を呼ぶ声がする。天道は僕の左頬に触れてまっすぐとこちらを見つめていた。触れている手のひらは驚くほど冷たくて、いつもは暑苦しささえ覚えるその目までが冷静さを帯びているように見えた。信じられないものを見る天道の強張った表情に自嘲めいた感情を覚える。
「驚いたのか、あまりに惨めで」
「そんなわけないだろ!」
どん、と地鳴りにも似た雷の音が部屋に響く。外の嵐は勢いを増していくばかりで、木と木が軋みあう音がひっきりなしに聞こえた。大声を出した天道はぜぇ、と息を荒げて唇を震わせる。冷たい手は頬を滑ってくだり、そして僕の左手を掴んだ。手同士が触れ合うと、なんて冷たい手なんだと理解できたが、同じくらい僕の手が熱いのかもしれなかった。
「なんでそんなこと言うんだ」
「…すまない」
「惨めなわけ、あるか」
なんだか泣き出しそうな声だというのに、鬱陶しいとは不思議と微塵も思わなかった。それどころか妙な清々しささえ覚えている自分がここにいた。過去を打ち明けたい、という欲望を持ったことはなく、誰かに話したところで理解を得られるなどとは考えてもみなかったからかもしれない。
「…顔をあげろ」
義憤に駆られて自分のことのように項垂れる天道の頬に触れる。手はひどく冷たいのに、頬は泣いているのかと思うほど熱くて一瞬面食らってしまった。ただ、顔をあげた天道の瞳は濡れてはいるものの涙まではこぼしておらず、僕の話を聞いて底冷えしたかのように見えた目は、いつも通りの熱さと光を取り戻していた。
「自棄気味になったのはすまなかった。…ただ僕は、惨めに思われようが哀れまれようが、自分の選んだ道を後悔することはない」
「桜庭…」
「君も同じじゃないのか、天道」
言ってから、少しだけ後悔する。――なんだ僕は。天道の取り乱した様子に僕自身も天道の持つ何かにあてられてしまったのではないか。手を離すと天道も我に返ったようにごしごしと目をこすってそれからまた僕の方を見た。ランタンに照らされた凪いだ瞳は、外の嵐の喧騒とはまるで違っていた。
「言われなくたって笑ったりなんか絶対できねぇよ。形はどうであれ、こうやって医者を続けているのは人を救ってるってことになるんじゃねぇの?」
「…君に言われなくたって充分承知している」
「さっきみたいなこと、もう自分から言うなよ」
やや拗ねたような口ぶりで天道がそっぽを向く。相変わらずどこか子供じみた奴だった。言ってしまえば僕のことだって他人事の一言で完結できるだろうに、天道はそれでも全力で他人の感情に乗っかるのだ。だから鬱陶しい奴だと、そう思っていたのに、同じじゃないか、だと。そんな言葉が自分から出てくるなど、冗談みたいな話だった。だが、僕が天道に言った全ては紛れもなく本音だった。
僕たちの沈黙を縫うように風の吹く大きな音が鳴る。天道は幼い表情を一転、深刻に思いつめた顔で顎を触る。次はどう行動をとるか考えているときの癖だ。
「軍は俺の思ってる以上に暴君なんだな」
「今に始まったことじゃない」
「今までも気をつけていたつもりだけど、より一層用心して動くよ」
「早計に失することのないようにな」
「分かってるよ、まだその時期じゃない。練っている案もみんなの士気もまだまだ不充分だ」
そうは言うが天道が来てからは随分この街も様変わりした。街から人一人としていなくなってしまったかのような静けさだったものが、少しずつではあるが活気づいてきたのが、診療時の患者の顔からも、三階から見下ろした景色からも分かる。
一人ではできないことも力を合わせればできるようになる、と天道は言っていた。その中には当然のように僕を含んでいるとも。天道はそうして自分を中心にして人を巻き込んでいく。それを嵐のようだ、と例えるのは些か安っぽいと感じるが、適切な言葉は思い当たらなかった。誰の力も借りずに生きる決意をして軍を抜けだしたというのに、天道が僕の日常に遠慮なしに入ってくるせいで調子が狂う以外の何ものでもない。ただそこに拒絶感は無いのが自分でも不思議な程だった。
「嵐、ちょっと静まってきたみたいだな。俺、そろそろ帰るよ」
「静まったと言ってもまだ風が強いぞ」
「なに、優しいじゃん。引き留めてくれんのか?」
「風邪など引いた状態で来られても迷惑なだけだ」
「本当に素直じゃないな!」
鞄にノートをしまい、外套を羽織って天道がドアに手をかける。ランタンから遠ざかったせいか、一瞬暗闇に呑まれた彼の輪郭を見失い、――不安のようなもやついた何かに駆られて、つい言葉が口に出る。
「おい」
「なんだよ」
「…視界も悪いはずだ。気をつけて帰れ」
「キミに言われなくたってじゅーぶん承知している」
僕の口調を真似た天道が笑う。今の杞憂はなんだったのか。からかわれたのも相まって釈然としないものの、先ほどの感覚はやはり拭えず、座って見送るに留めようとしていたものの、やはり玄関まで見送ることにした。
ドアを少し開けると、先ほど部屋の中で響いた音に比べればおとなしくなっており、雷も鳴っていなかった。ただやはり風は吹きすさんでおり、わずかしか開いていないドアの隙間から雨がどんどん入り込んでくる。外套のフードを被った天道が出際に一度僕の方を振り返った。
「今日、話してくれてありがとな」
「別に礼を言われるようなことでもないと思うが」
「いや、…聞けて嬉しかった」
なぜかフードを深く被り顔を隠す。天道、と声をかけるが「また明日な!」と告げて天道は風に抗いながら嵐の中へ足を踏み出してた。玄関先まで、と考えていたのに、結局少しよろめきながらも帰路をたどる天道の後ろ姿が風と闇に紛れて見えなくなるまで見送った。身体が冷えると分かっていながらも、床と自分の身体が濡れるのも、そのときばかりはなぜかあまり気にならなかった。
