夜が訪れる。人のせいで熱かったほどの喧騒を受けてか、街の気配も落ち着ききっていない。今日もドアを叩く音が聞こえる。開けて招き、確認すると今日の患者は以前診た青年一人だけのようだ。ガーゼを替えてほしいと、少し汚れたガーゼで覆われた左頬を差し出す。工場勤めの彼はあまりの疲労に作業をする手を止めていたところ、監視係の者に頬を殴られたと言う。初めてこちらに来た際、手を止めていたのはほんの一瞬で、監視係は軍から派遣された者だと青年は悲痛な声で訴えていた。本当かどうか確かめる術は無いが、僕は治療することでその声に応えた。
ガーゼを剥がすと、いくらか良くなっているものの、殴られた際に切れたらしい口の端の傷が大きいままで痛々しく、また青や紫の混ざった痣も濃く浮かんでいる。消毒を施してガーゼを貼り直す。口を動かされては治療ができないのもありしばらく沈黙が続いたが、ガーゼを固定するテープを切ってすぐ青年が口を開いた。
先生、昼に噴水広場にいたでしょう。そんな言葉に驚きを覚えて、ただ半分は納得した。この眼鏡でうろつくのはやはりいささか目立つらしい。始めてこの家に来たとき、ひどく悲痛な面持ちをしていた彼は、傷の痛々しさなどものともしていないような朗らかな顔で笑っていた。
僕、あの人のことを信じているんです。先生も彼の話を聞いてみたらどうですか? 出際にそんな言葉を残して彼は帰った。その言葉が頭の中で何度も繰り返されて、青年が帰ったあとも片付けずに座ったままでいた。――あの人とは噴水広場で堂々と演説をしていた人物のことだろう。正直のところ、僕は彼のどこがそんなに人々を期待させてやまないのか分からずにいた。あんなに大胆に人々を説いているが、言葉ひとつで信じきれるわけがない。もしかしたらとんでもない大法螺吹きである可能性も否めないのだ。
あの男の、夢見がちともいえる言葉に覚えた感情は苛つきだった。ヒーローになる、だなんて馬鹿げているとしか言いようがない。いったい何ができると言う? 身動きすら怯えながらではないととれないこの街で。あの男が人々に対していったい何をしているというのだろうか。口だけではないのか?
分からないことが多いものの、自分から知ろうという気にはとてもなれない。良いことが起きるかもしれないと患者の一人が言った。良いこと、だと。拳に自然と力が入っていく。どう変えられるというのだろう。変化は、自ら起こさなければ成し得ないというのに。
考えても埒が明かない。あの男は恐らくこの先僕と関わることはないだろう。壁時計を確認すると、そろそろ軍が夜の巡回に出る頃だ。起きていることを悟っただけでも向こうが何をしでかすか分かったものではない。
ランタンを消すと部屋は真っ暗になる。置いている家具の輪郭がかすかに浮いて見えるのは住み慣れているせいだろうか。元々見えない左目を抱えているせいもあり暗闇に慣れた目で寝室に向こうとしたそのとき――ドアをどんどんと叩く音が聞こえた。
ここへ診察に来ても良い時間は暗黙の了解のように街の人々へ知らせてある。来てはいけない時間も併せてだ。先ほど時計を確認したときは、来てはいけない時間のほんの少し前だった。
まさか巡回の時間がずれたというのか? それとも急患だろうか。ドアを叩く音は力強く荒々しさを感じる。――僕はドアを開ける方を選んだ。軍以外だったら誰だろうとこの状況がまずいことには変わりないうえに、患者が帰った以上軍だろうが僕が怯える必要などどこにもない。もうすぐ目を光らせた軍人を乗せた馬車がやってくる。ドアまでの数歩がやけに遠く感じ、心臓が緊張に嫌な動きをして止まらない。
「あ、悪い、こんな時間――」
重そうな軍服を纏った軍人ではないことを一目で判断して、目の前の人物が誰かよく確認もしないまま腕を掴んで家へ無理やり招き入れた。そのまま力任せにドアを閉める。次の瞬間、遠くから蹄鉄が地面を蹴る硬い音が非常に速いペースでこちらに近づいてくるのが聞こえてきた。間違いない、巡回だ。
「おい、」
「静かにしろ」
間一髪というところだろうか。だが全く油断できない。軍は僕に目をつけている。乱暴な真似だと思いつつ、掴んだ腕をそのまま身体の方へ引き寄せる。空いている手で口を塞げば強制的に抱き合う形となった。そのまま相手の肩越しに顔を覗かせ、ドアの向こうで何が起きようか見えずともなんとか理解しようと視線が睨むような形になる。ろくに顔も確認していないが、招き入れたのは男のようだ。このほんの短い間にただならぬ何かを感じたのか動こうとはしなかった。
馬のいななきが聞こえた。驚いたのか相手の身体が一瞬大きく跳ねたが、少しの音も悟られたくなくて彼の身体を抱いて固定する力がますます籠もる。家の少し手前側で鳴いたようだった。相手はどう来るか、いつものようにドアの前で立ち止まるのか、それとも中に入ろうとするだろうか、その場合はどこに彼を隠すべきか、…状況に備え様々な考えが頭の中を巡る。
しかしそれは杞憂に終わった。巡回は僕の家の前で立ち止まることもなく通り過ぎた。近づいてきたのがあっという間だったが、遠ざかるのも同じだった。部屋は一気に沈黙を取り戻す。ドクドクと脈打つ音はどちらのものだろうか。外からの音が完全にやんでから少しずつ呼吸を整え、押さえつけていた身体を放す。二人の身体に涼しい風が通っていくようだった。
誰だ、こんな危険な時間に来る奴は――暗闇の中改めて目の前の姿を確認して、愕然とした。僕の家に来たのはあの、噴水広場で演説をしていた男であるらしかった。
「…どうやら間の悪いときに来ちまったようだな」
すまん、と短く謝るその態度に腹の底から急激に怒りが湧く。やはり言葉だけの軽薄な男だというのか。自分の行動がいったいどれだけの人間を巻き込んでいるか自覚があるのか、そもそも何の用事だ、――言いたいことが山のように浮かぶが、彼の方が口を開くのが先だった。
「なぁ、悪いんだけどランタンつけてくれねぇ? 何も見えねぇんだ。軍の見回りももう今日はこっちに来ないはずだろ」
反射で何か言い返そうとしたが、意味のない泥沼になりそうだったため口を噤む。それにこちらも知りたいことがこの短時間で山のように積もっていた。確かに軍は夜だけは街を一巡するだけで、往復して見回ることはしない。しかしなぜ軍がもう来ないことを知っておいてこの時間に来たのか分からず、ただどんな理由であれそれが愚かな行為でしかなく溜め息が出た。
テーブルに置いてあるランタンを最小限の明かりで灯す。それでもこの暗闇では充分な程だった。照らされた彼の顔は気まずそうに僕から目を逸らしている。なんだか脱力してしまい、椅子に座り込む。
「座ったらどうだ。立ちっぱなしでは落ち着かないだろう。一刻も早く出て行ってもらいたいが」
いきなり訪れたのは向こうだと言うのに、彼は気に障ったのかムッと顔を顰めて僕の隣、いつも患者が座る席に腰かけた。
改めて彼と向き合う。昼のときは人混みと彼の軽薄に感じ取れる言葉に辟易してしまい、結局その場をすぐに離れてしまったのだ。改めて彼の顔を見る。顎髭を生やしていて、僕より歳が上だろうが顔立ち自体がなんだか幼く見える。それが昼時の浮ついた言葉へ妙に結びつき不快感を覚える。出したくなくても勝手に溜め息ばかり出た。
「なんだよ、溜め息ばっかつきやがって」
「それがいきなり家に来た人間の態度か?」
「…だから悪かったって」
こっちに反論してきたかと思えばすぐに申し訳なさそうに俯く。なんだこの男は――そう思って僕はまだ、彼の名前すら知らないことにようやく気がついた。
「名前は何と言うんだ」
そう尋ねると彼は少し目を見開いて僕を見た。そして姿勢を正して、笑いながら名を告げる。
「天道輝。少し前にこの街に来たばかりなんだ」
「少し前…? あぁ」
そういえば隣の市や街から、工場が集まるこの街へ軍が労力を徴集していた。恐らく彼もその一人なのだろう。軍が見回りを行うことを知っていても、時間までは把握していなかったのもそのせいかもしれない。少し視線を下ろすと細かな傷がついた手の甲が見えた。
「おい、そういうお前は名前言わねぇのかよ」
「こんな夜遅い時間に来る迷惑な人間に名乗る必要など感じない」
「なんだお前、街の人から聞いていた評判とずいぶん違うな」
「そんなの知ったものか。いったい何の用だ。診察でもないならもう帰ってほしいが」
「今後世話になるかもしれねぇからな」
何気なく言い放たれたその言葉に不覚にも目の覚めたような気にさせられる。先ほど診察していた青年の怪我の理由を思い出す。青年だけではない。ここに訪れる人々は理由が直接的であろうがなかろうが軍が関わっていることが非常に多い。この天道という男も近い将来患者としてここに来る可能性があるのだ。あんなに目立つ行動をとっていれば尚更だ。
「…なぁ、どうしたんだよ」
「桜庭」
「え?」
「桜庭薫。この街で医者をやっている。…軍は一切介入させていない」
公共の業務や施設に軍を介入させていないことは、即ち存在が非合法であることを示していた。この行為は軍に一切の利益がない。僕のやっていることは国に許されるようなことでもなければ、もう僕の存在自体が許されていないとも言えるのかもしれない。最も、自身の行為に罪の意識など皆無に等しいが。
僕の言葉を受けた天道はやや強張った顔つきになった。この街に越したばかりだと言っていたが、それでも僕の言っている意味が分かるのだろう。ただ、おかしなことにすぐに顔の緊張を解いて笑った。顎鬚を生やしているのにも関わらず、笑うとより幼い、街で遊ぶ子供とそう違いのない顔になることを知った。
「それだけの覚悟があることも、もう聞いてるよ」
「よくそんな能天気に笑っていられるな」
「俺だって同じだ。覚悟がないわけないだろ」
簡単に覚悟という言葉を口にするところに、僕はやはり彼に対してどこか軽薄さを感じずにはいられなかった。覚悟というものがそう簡単に生まれるものならば、この街は現状よりもっと変わっているに違いない。天道は僕をじっと見つめ、不思議だ、と独り言のように呟く。
「本当に愛想のない奴だな。街の人はみんな桜庭のこと優しいお医者様だって言ってたぞ」
「それがどうした」
「なぁ、そんな冷たくあしらうなって。こんな時間に来たのは謝るから。さっきも言ったけど、今後世話になるかもしれねぇからよ」
「…君、この街を変えたいと言っていたな。こちらに来たばかりだというのに何を考えている? 僕は無鉄砲な馬鹿の面倒まで見るとは言った覚えがない」
天道は僕の言葉にやや気を損ねたらしく閉口した。しばらく沈黙が続き、この部屋で動いているものはランタンの揺らめく光のみになる。天道は目を伏せて一度深い溜め息をつくともう一度僕を見た。今度は射抜くように真っ直ぐと僕を見据えてくる。
「桜庭はこの街のこと、どう思ってるんだ?」
「どうとは何だ」
「俺は」
最悪だと思った。そう言った天道の顔は険しい。その言葉を受けて、だろうな、と思う気持ちが正直に生まれていることを自覚した。天道の言うことは間違ってはいない。確かにこの街を取り巻く状況は最悪と言っても過言ではない。軍の厳しい監視と一方的な政策に怯えるだけの人々、動きを増すばかりの工場と増えていく患者…この街に越したばかりの天道が最悪だと言いたくなる気持ちも理解できないものではなかった。
「俺の住んでいた街も少しずつ軍からの要求が厳しくなっていたけど、それにしてもここまでじゃなかったぞ」
「…この街には国一番の工場がある。一番金を持っているとも言えるし、今一番金が足りていないところとも言えるだろう。」
「なんで誰も何も言わないんだ」
「逆に言ったらどうなるか分からないのか」
「俺は!」
天道がテーブルを叩いて立ち上がる。天道は両方の目で僕を見つめてきて逸らすことはない。テーブルの上で拳を握り締めて、絞り出すように息をつき、悔しそうに言葉を紡ぎだす。
「…この状況が許せないって思ったよ」
今の時間なら恐らく軍の巡回も終わっているはずだ。だから天道に帰ってもらっても何の問題もなかった。それなのに――帰ってくれの一言さえも躊躇われた。塞がれている僕の左目さえも射抜くような天道に気圧されてしまったのか。今だけは、彼を否定する言葉をぶつけられなかった。
天道は少し落ち着いたのか再び椅子に腰かけ、それから小さな溜め息をついた。
「まだこの街に来てからそんなに経ってないけど、そんな俺でも分かるよ、…この街、煙が多いな」
「……」
「借りた部屋の近くに小さな子供のいる家族が住んでるんだけど、毎晩子供の咳が聞こえるんだ…」
もう何度も聞いた気管支の悲鳴。思い出したくなくても、日中絶つことなく吐き出される鈍色の煙を思い出せば嫌でも聞こえてくるようだ。天道もそうなのだろうか。握りしめている拳は力が入りすぎて少し白くなっている。
「なんでこんなに咳が、って考えてそこで分かったよ。俺が工場勤めって言ったら嫌な顔をされた理由もな。…もちろん好きで工場で働いているわけじゃないけど、そんなことはあの子には関係ないんだよな」
自嘲めいた笑みが浮かぶ。幼さの目立つ顔にその表情は浮いて見えた。外で大きな風が一度大きく吹いたらしい。ごう、という大きな音がしたあと木の軋む家の揺れるかすかな音がした。
改めて天道の姿を見る。指先から手の甲には細かな傷がところどころついている。軍については無駄なところまで知っているくせに、工場で主に何をしているのかを僕は知らずにいる。知りたいという欲までは湧かなかった。人々の顔と言葉、そこで生まれた傷や病が全ての結論を物語っている気がしたからだった。天道も今、僕が今まで見てきたことを目の当たりにしているのだろう。この街の感想を述べる顔は先ほどから暗い。
ただ、目だけは力を失う気配がない。そこにはっきりと見えるのは意志の力だ。今は場所も時間も違うのに、目を見れば簡単に広場で見たときの姿が想起させられた。
「俺はこの街を変えたいんだ」
無謀であることを忘れ去れるような、はっきりとした言葉だった。この街に変わってほしい、変えたい、今まで何人がそう思ってきたことだろう。僕も例外ではなかった。変えられるなら変えたい。軍が怖いわけではなかった。むしろいたからこそ、あんな連中、と吐き捨てることも僕には容易かったはずだった。
ただ、もしかすると殺される、ということだけが引っかかっていた。命を絶つような真似がこの世で一番馬鹿げていると思えてしまう。こんなことで死ぬわけにはいかないと義務めいた感情に駆られた結果が、夜な夜な行う診療だった。天道はこの街を変えたいと言う。行動に起こすということだろうか。だとしたら――その身を投げ出すことを示しているのか。
「変えるなんて、いったいどうするつもりだ」
「この街のみんなも今の状況が嫌なのは分かっている。一人で立ち向かうなんて無理なのは分かってる。声を集めるんだ、一人だけじゃ弱い力だって集まれば強くなるさ」
「その先頭に君が立とうと言うのか」
「あぁ」
「…軍に何をされるか分からないんだぞ。命の危険だってある」
「それを承知の上で動いてるさ」
「本当に無茶な真似だな。…僕は手伝えない」
「おい、どうしてだよ!?」
そんな答えは想像してもいなかったとでも言いたげに天道が詰め寄った。誰かが何かをしなければ変わらない点は同意できるものの、僕は捨て身の人間をいちいち看病する気にはなれなかった。それに、ただでさえ軍に目をつけられている僕の近くをうろつかれたら立ち上がるだの何だの以前の話になる。天道の話を聞く限り、僕が以前軍にいたこともとうに聞いているだろう。
「僕が前に軍にいたことは知っているのか?」
「それはもう知ってるさ」
「何を期待してるのか知らないが、軍にいたからって有益な情報を持っているわけじゃない」
「そんなことを求めてるわけじゃないさ」
ただ、と言葉を続ける。
「こんな風に街の人を診療してあげて、桜庭も同じ気持ちなんじゃないかと思って」
「同じ気持ち?」
「この街のこと、なんとかしたいんじゃないのか。何かを思わなきゃ金も取らずに誰かを治すなんてしないだろ」
その言葉に、どうして今僕はここにいるのか改めて思い返す。どうして軍に入って抜け出したのか。抜け出したのは、いられなくなったから。いられなくなったのは、どうしても我慢ができなかったから。そのことに後悔はないものの、今が良いと思っているわけでも決してなかった。それが変わろうとしている。たった一人、目の前の男を起点にして。
変わることなどあるのだろうか。いや、変えられるのだろうか。ずっとそう思っていた。軍を出てから何かをしなければならない、焦燥にも似た義務感だけを背負ってここまで来た。何かが目の前の男によって変わる予感に確かな逡巡を覚える。今僕が渡ろうと足を踏み出しているのは脆い橋だ。どこに繋がっているかも分からない、明るいところへ続いているかも分からない橋を、前に天道を歩いている。
「本当にこの街を変えたいと思うなら」
「え」
「さっきみたいに軍の巡回時に来ようなどと思うな。まずは時間を覚えろ。他の住民に迷惑や危険が及ぶような真似は絶対にやめろ。あと僕にも、だ」
今までの険しい顔が嘘だと言うように天道は大きく笑って見せると、僕の手をとった。その手の熱さが人の体温をまざまざと感じさせるもので思わず振り払いたくなる。天道は引きつっているであろう僕の顔にもお構いなしに手をしっかり掴んできた。ぞわりと肌が粟立って、とうとう振り払ったが天道は気にも留めていない様子だった。
「よろしくな、桜庭」
「よろしくすることなど何もない」
「そこくらいは素直に頷いとけよ!」
今までにないほど喧しい夜だった。僕と天道はこの日、初めて顔を合わせたのだ。
全く、ろくでもない出会い方だった。
軍の巡回時間はすぐに覚えたらしい。覚えさせたら僕と天道の関係はそこで途切れるはずだった。まさか夜、時間を見計らって天道がこの家にしょっちゅう来るようになるだなんて、どうしたら想像できようか。
「いい加減にしたらどうだ」
「お前人を出迎える第一声いつもそれなの?」
「危機感のない喧しい馬鹿を出迎えた覚えは一切ない」
本当はすぐにでも追い出してやりたいが、軍への危機感の方が勝った。天道への印象は広場で初めて見たときから全く変わっておらず、喧しく鬱陶しいことこのうえない。ただ、もし僕がここで彼を放して外に出させて――軍に捕まったらと思うと流石に後味が悪すぎる展開だと思った。
しかし天道は、診療と巡回のちょうどあいだの時間をぬうように僕の家へ来る。僕が家に招かざるをえないことを知っての行動だったら最悪だった。
「なんでそう毎晩ここへ来るんだ。僕の迷惑を考えたことあるのか?」
「うるさいって思ってるんだな? ここじゃ随分静かにしているんだけどな」
「声の大小の話ではない、存在の煩さが問題だと言っている」
「ひでぇ奴! 前にも言ったろ、俺とお前は同じ気持ちなんじゃないかって」
それに、と言葉を続ける。ふざけたような天道の口調も表情も、そこで一気に鋭くなったものだから、喧しさを聞き流していた意識の不意を一瞬突かれてしまう。
「軍にいたことのある奴は桜庭以外いないからな。そのうえで何ができるか考えたいんだ」
「やはり僕を利用するつもりか? 前にも言ったが、僕から提供できるような情報は何もない」
「だからそういうんじゃねぇって!」
先ほど本人が説明したとおり、天道が外に気取られぬように気をつけているのか声は外で演説じみたことをしているときよりずっと抑えられている。ただそのせいでころころと変わる表情がより一層のこと煩い。
天道が僕のことを利用するわけではないことは分かっても、皆を奮い立たせる意味の方が強いとは言え、演説は虚飾に彩られているように聞こえならず、彼が何を企んでいるのかまでは全く図れなかった。そこまで豪語するつもりなら、空っぽに見える言葉の中に何かあるだろうと問うてみる。
「ヒーローになりたいだのこの街を変えたいだの、随分なことを街の人々に言っているようだが何を考えている?」
「何って」
「口だけだとしたらこの家にあがることを二度と許さない」
僕の言葉に気圧された天道が怯んで口を噤む。ただ、目だけはしっかりと僕を睨んでいた。言い返すなら、そうしてみろとほとんど試すような気持ちだった。天道は塞がれている僕の左目までも律儀に睨み返したあと、軽く力を抜いて息を吐く。
「法を」
「…何?」
「法を作る。前に住んでいた街では法を学んでいた。工場の労力に駆り出されるなんて夢にも思ってなかったけどな。よほど人が足りてないんだろう」
「待て、法を作るとはどういうことだ」
「みんなが少しでも暮らしやすくする法を練って軍に提案する。もちろん、一人でそんなことしたらただの狂人だ。今はみんなの声を集めるのと同時に、街は変えられるっていう士気を高めたい」
自身の計画を話す天道は極めて落ち着いており、その口調から讒言だ狂言だと反論するのが躊躇われるほどだった。だからこそ、企画の大きさに言葉を失ってしまう。単なる武力行使に訴えるだけかと思っていたから、正直に驚いてしまった。しかし天道が法を学んでいたとは。
「とても見えないな」
「…主語がなくたって何が言いてぇのかよーく分かるぞ」
眉を吊り上げた天道は僕をひとしきり睨み、そして顔の力を解いて笑った。勝手に椅子に腰掛けるといった動作に強い図々しさを覚えるものの、心はこんなに単純なものだろうか、天道の思考への興味のほうが勝った。
天道の指先は初めに見たときと同じ、労働のせいで細かな傷がついている。この指で法典をめくり法学を学んでいたとはにわかに信じがたかった。それも先ほどの天道の言葉――労働力がそこまで足りていない、というところに理由が結びつく。疲労に喘ぐ患者を数多く診ているのに、いったい軍の何が彼らを酷使するのか、深いところまで原因は考えたくなかった。
「最も厳格なる法律は、最も悪しき害悪なり。って言葉があるんだ。意味は文字通り。…いくら工業が発達してようが、この街の軍統制は行き過ぎだ」
「……」
「桜庭もそこに疑問は持っているだろ? そうでなきゃ危険を負ってまで診療なんか受けないはずだって、その点が同じ気持ちだって思ってる」
「…軍が行き過ぎているのは今に始まったことではない。命の危険があると前に教えただろう」
そう答えれば、今まで饒舌だった天道が押し黙る番だった。改めて口に出すと、とうに何も見えない左目が一瞬鋭く痛んだのを無視する。
瞬間、あの不吉な――馬車の近づく音が聞こえてきた。天道の顔にも僕の顔にも緊張がよぎる。僕は既に目をつけられているから、こんな時間に家に誰かを招いているのがバレてしまったら、…一巻の終わりだろう。息をすることすら躊躇してしまうような圧迫感が僕の胸を押さえた。
天道はそんな僕を見つめていた。この街に来てから軍の脅威はあらゆる人から聞かされているのだろう。そうでなくたって、酷使されている人々は嫌でも目に入ってくるのだ。膝の上で握られている天道の拳には力が籠もっており、微かに震えている。
どんなに大きなことを言ったところで、今はこうして二人、息を潜めて怯える他ない。この今が――本当に変えられるのだろうか? みんなの士気を高める、と天道は言っていた。もしかしたら現状を変えるのは、一人ではなかったらできることなのか。
先日と同じように、巡回は家の前で止まることなく通り過ぎた。灯りを押さえたランタンも功を奏しているのかもしれない。息を再開させるのは二人ほぼ同時だった。天道は僕を見て、怒りの表情を浮かべる。紛れもない義憤にかられていた。
「こうやってずっと怯えて生きていられるはずがない。俺は…この街を変えたい」
「…天道。君の考えはよく分かった。それを止める権利など僕にはない。ただ、どうしてうちに来る? 同志なら他にもいるだろう」
今度は皮肉ではなかった。天道の家は、演説を行なっていた噴水広場の少し奥にあると聞く。あのあたりにも住宅は固まって建っているから、何もここまで来る必要がないと考えた。命に関わることならなおのことだった。
天道はまず緊張を、握っていた拳から解いた。そして真っ直ぐに僕を見据え、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「こうやってビビっていても、やり方が向こうからしたら汚かろうが、お互い今をどうにかしようって思ってる。そうだろ?」
「…否定はしない」
「桜庭は元々軍にいたのに、みんなを診療している。理由なんて、それだけで充分だ」
馬車の去ったあとは、不思議なほどに外が凪いでいるように思えた。こんな風に思うのは初めてだった。この家で一人でどうにか――足掻いてきた僕を見る天道の瞳もまた、同じように凪いだ力を湛えていたからだろうと思った。
こんなにも別の人間同士であるにもかかわらず、天道は僕に仲間意識を持ち続けているらしく、二、三日に一度ほどのペースで僕の家へ訪れては、街の人々とどんな話をしたのか僕に教えてくれる。元々そんな気は一片たりもないのだが、僕を通して軍に情報が伝わるなんて夢にも思っていない様子で、様々なことを僕に話した。
天道は人の様子を汲むのが上手い。そこは認めなければならなかった。些細な、つまらないところで気が合わず小さな口論は交わすものの、相手を一切認められない意固地な部分はいつの間にか互いになくなっていた。
相手の現在を知ったところで、次に気にかかるのは――過去だ。僕も愚鈍ではないつもりだ。天道が僕の何を知りたがっているのか、さりげなく配られる目線で薄々感づくことができた。天道が誰かの話を聞くその持ち前の聡明さで、僕に聞きたいことを抑えていることにも気づけたのは、僕自身もまた、天道を見ているからだろうか。
「桜庭、なんで左目隠してるんだ?」
ある日の夜。天気の話題でも振るようなさりげない聞き方だった。天道は日課である街の記録をつけている。
今日の天気に始まり、街の人とどんな会話をしただの隙を見つけて観察している軍について気づいたことだの患者のカルテよりも細かい事項を、本と見紛うほど厚いノートに記入しているらしい。それを僕の家で書く必要はないだろうと何度も言って、そのうち指摘自体が面倒になり、僕の方は紅茶を淹れて患者に渡す薬の仕分けや処方箋の作成で間を潰すようになったのは少し前のことだ。
ノートに万年筆を走らせながら天道は僕の返事を待つ。いつもと変わらない様子でぶつけてきた不躾な質問。だが質問を受けて初めに思ったことは、彼が細心の注意を払っているということだった。僕が話したくないと言えば謝罪の一言で済むように、話す気になれば聞く姿勢を作れるように。
根拠を挙げるとするならば、僕を覗き込む双眸だろうか。彼でなくても気になる人間は何にもいるはずだ。一瞬だけ視線を左目に注がれる感覚をもう何度も経験していた。ただ天道が、単なる好奇心のみで人の話を聞かないことは、街の人々に対する態度と、それに対する街の人々の反応を見ていれば嫌でも気づく事実だった。
さらさらとペンが紙を走る音に、ぽつぽつと窓と地面を打つ雨の音が交じるようになる。やがて窓の外を見れば街は深い暗闇に覆われて、何も見えなくなってしまった。
「今晩は空が荒れるらしい」
「雪みたいに積もった雲が多い日は必ず酷い雨になるって聞いたことあるぜ」
「この時期は嵐が多いんだ、…なんでそんな時に僕の家へ来たんだ」
「天気が悪いと夜は巡回来ないみたいだからな」
知らなかったろ、と僕の方をちらりと見てしてやったりと言わんばかりに口角をあげる。何をそんな勝ち誇った気になっているのか呆れるしかなかったが、外では強い風が吹き始めたのか窓枠が微かに軋むのを聞くと、確かにこの荒れそうな天気では巡回など来そうもないだろう。
外から中など見えそうもないが、いつものように明かりが漏れぬようカーテンを閉める。瞬間、それを合図に待っていたかと言わんばかりに稲妻が光り部屋を照らした。強い光の余韻の中で見えた天道はペンを持ったそのままの姿勢で硬直していた。ランタンの光が再び部屋に満ちた頃にやっと動き方を思い出したらしく、のろのろと緩慢な動きでノートをぱたんと閉じる。
「…君はどこまで子供のつもりなんだ」
「びっくりしただけだっての!」
ノートをテーブルに叩きつけ、拗ねてしまったのかそのままノートに頭を乗せて天道はこちらへ顔を向けない。隣に腰かけ、後頭部しかこちらに向けない天道を見る。ランタンの揺らめきに合わせて影を変える髪はやわらかく襟足を覆っている。本当に、ただの子供だ。それでも、話を聞いてからずっと抱いている感想だが、こんな子供じみた態度を平気でとる割に随分と聡く、街の人間の名を覚えるのに恐らく僕の時間の半分程度しかかけていないだろう。そのままを認めるには気に食わないところが多すぎるが、見ていくうちに肯定せざるを得ない面も多く出てきた。
前に住んでいた街で、天道は法学を学んでいたと話していた。彼の住んでいる街の詳細を僕は知らない。ただ、なんとなく、よく陽の差す部屋で法典を読む天道は想像に容易い。労力として駆り出されていなければ、天道はそちらで彼の言うヒーローになっていたのだろうか、…彼の近くに軍の気配はあったのだろうか。
「君は軍人と関わったことがあるのか?」
「ねぇよ」
ノートに頭を乗せたまま、天道がようやくこちらを向く。僕を見上げるその目はやはり塞がれた左目までも見ようとしているのか真っ直ぐと射貫くようで、気になることを隠そうともしなかった。ただ、僕が口を噤めば彼はそれ以上の言及はしないだろう。今までの活動を見ているせいか、天道の聡いところには妙に信頼を置いているところがあった。
窓枠の揺れが増していく。部屋にいるというのに、ごう、と風の吹く音と、雨がばたばた、とガラスを強く打つ音がひっきりなしに聞こえるようになる。雷は先ほどの瞬間を最後に光ってはないが、今かとこちらを伺うように上空で鳴いているようだ。ここで僕が話さないことを選んでも、天道は帰るには至れないだろう。――火に揺らぐ双眸に潜む聡明さと、面倒なほどの熱血さに、賭けてもいいかと思えてしまった。
他人の関係である距離から羨望を抱いているのみに納まらず、まさか天道に感化されている、とでも言うのか。こんなに喧しい男に。あまりに信じがたくて可笑しいほどなのに、とうに見えない左目にまで意識を及ばして、真っ直ぐにこちらを見てくる彼と目を合わせている自分に気づいて、天道に過去を呼び起こされている気になってしまったのだ。
話すことに躊躇はない。ただ積極的に話すようなことではないだけだ。目の前の男がどう捉えるかは分からない、ただそれだけのことなのだ。
「…桜庭?」
僕を見る天道が戸惑いの表情を浮かべる。彼の目に、かつて軍にいた僕はどう映るだろうか。外では風と空が悲鳴のように叫んでいて、雨は弱まることを知らない。嵐のせいでこんなにも騒がしいのに、二人のこの場面のために誂えたかのように部屋は静けさを保っていた。
「僕は、…人など近くにいなくて良いと思っていたのだがな」
測れぬほど遠いところで、暗闇を蓄えた雲が唸るように雷を鳴らしている。
