砂上の星(再録) - 2/9

 最後に晴れた日はいつだったのかもう忘れてしまった。窓を開けても部屋の明るさはさして変わらなくて、今の時間が、陽が昇りきった朝だとはとても思えない。湿気の多いこの時期、朝方は霧に包まれていることも多いせいもあって、この街では夜以外は全て同じだった。
上空を見やれば、塔のように何本もそびえ立つ工場の煙突から吐き出される煙で雲が灰色に染められている。自然と視線が睨む形になっていく。最近診察する子供はみな気管支を患っている。状況が悪化するのも時間の問題だろう。
 下の方へ目をやると家屋が並んでいる。建ったばかりの頃は恐らく真新しい白色だったであろう外壁も、今は灰に煤けてくすんでいる。どこの家も窓とカーテンは閉め切られていて、中に人がいるかどうか分からなかった。静かな家並み。静かすぎて、街の形をそのままに人がみんないなくなってしまったかのようだった。

 この街は国が有する軍があらゆる政策・指針を決定している。僕たちは、国を導いている存在であるはずの軍という巨大な組織に怯えながら、身を隠すようにして暮らしている。平地が多く、元々は緑も多かったのだが、巨大な工場が連なって建つようになってから今はもう見る影もない。工場ではあらゆるものを作っていると風の噂で聞く。生活に必要な小物から、辺り一帯を焼け野原に一瞬にして変えられる兵器まで。なぜこんなに他人事だと思えてしまうのか。軍が作っているものが、僕たち街の人々ほとんどの手に渡っていないせいだった。
 軍は街を、率いては国を管理している。僕らの生産するもの全ては軍の繁栄に結びつかなければならなかった。その結果が、高額な税と今もなお上がり続ける医療費と公共料金だった。軍が今何を考えながら国を導いているかなど僕たちはろくに知らないのに、街は確かに痩せ細る一方だった。
 さらに最近では言論・思想の統制の気配すら及んでいる。その一つが――朝と夜の二回に分けて行われる街の巡回だった。厳めしい馬車に乗った軍人が、ご苦労なことに日に二回も僕たちがどう過ごしているか視ているのだ。何か怪しい挙動が見られればその場で詰問され、最悪の場合は軍事基地まで連れていかれてしまう。連れていく・いかないの基準はその軍人の匙加減に因るのだから呆れる。
 しかし、そのせいでこの街の人々は怯えて暮らしている。軍人に何かが伝わった時点でお終いなのだ。もしかしたら、僕が把握していない範囲で軍どころか住民同士にも不信感が募り始めているかもしれない。この状況は仕方がない、の一言で済ませられるものだろうか。良くない状況に振り回され、疲労に痛む身体に憤りを覚えている者も少なくないと、診療しているとそう思わずにはいられない。
 ただ、皆当然のことだが自分の身体と命が一番大事だ。この街で生きていくために一番簡単な方法が、心を殺すことだった。

 薄汚れた空を睨んでいると、今はもう何も見えない左目が、じくじくと焼けるように奥から痛んでくるような気がしてくる。こんな日に出るのは溜め息だけだ。街を見下ろしていてもただ埒が明かないだけなのでおとなしく窓とカーテンを閉める。途端、窓と霧と煙の奥から、この街に向かって何かが近づいてくる気配を感じた。
 窓を閉じても伝わる外の緊張感――静かすぎる街の原因がやってくる。やがて、重たい身体を滅茶苦茶に引きずりながら走る馬のいななく声が聞こえてきた。軍人の性質を嫌でも知り尽くしているせいで、鞭の叩く音さえも酷に聞こえてくる。外は誰も出ていないだろうか、窓を閉めたばかりだというのに少しばかり不安になって、無性に確認したいような気に駆られる。だけど開けるわけには、いや、姿を見せるわけにはいかないのだ。
打つ速さを少し増した心臓を否定できなくて嫌でも気が立っていく。集中はドアの向こうの側に寄せられる。石畳を蹴る蹄のやかましさが増していった。
ふと、そのやかましさは僕の家の前で一度やんだ。ドア越しの見えない光景のことなのに、僕の家の前であの馬車が止まっていると思えてならない。いや、僕の家の前で止まっているに決まっている――鼓動が耳の奥で響く。さっきまでこの街を包んでいた沈黙がそのまま僕の部屋に移ってきたかのようだった。
 しばらくドアを睨む姿勢になる。軍人の掛け声とともに鞭のしなり打つ音が空気を切り、馬は大げさなほど大きな声で鳴き声をあげてまた走り始めた。その少しの間の一連の流れが間近に聞こえたことに、嫌な確信が深まるばかりだ。やはり軍は僕を、油断ならない監視の対象として見ている。どこまで僕のことを把握しているかなんて知る由もない。蹄の音は遠ざかってもう聞こえない。過去の自分のせいで今の状況になっていることは否定できない。だから、馬車が遠くに行ったことに安心している自分が許せなかった。

 しばらくして、陽が少し高くのぼり軍の気配も消えた頃、街はようやく動き出した。様子を見つつ外へ出る人々の行きかう声に交ざって子供の笑い声も聞こえる。工場から吐き出される煙のために、本当はあまり外へ出ない方がよいのだが、娯楽になるようなものが何も無いこの街では難しい話だろう。
 つかの間の休息とも言えるような、昼前ののどかなひと時。紅茶を淹れるための湯を湧かし、その間に鍵のかかった棚を開けてカルテと処方箋、そして昨晩調剤した薬を取り出す。ひとつは××氏に渡す胃薬。もうひとつは○○氏の長女に渡す気管支の薬、これは単体だと苦くて飲みにくいためオブラートも一緒に渡すつもりだ。これは、それは、…一つ一つ間違いのないように紙袋に入れていく。渡すのは深夜、工場の稼動が止み、もしかしたら一番空気の澄んでいるかもしれない時間だ。
 ケトルから湯気の出る甲高い音が聞こえる。作業を中断して台所に立つ。淹れる紅茶は、薬のお礼にと近所の老人から渡されたものだ。他にも食料の保存庫をあげれば野菜とパンが入っている――そのほとんどが人から譲り受けたものだ。あなたがいなければ身体は良くならなかったと。あなたがこの街にいるおかげで、私たちの健康が保たれているのだと。
 茶葉の入ったポットに湯を淹れると、ゆらゆらと揺れる湯の面に自分の顔が見えた。左目の塞がれた眼鏡をかけた姿に、自分ながらいつまでも慣れずに少しの不快感を覚える。果たして僕のやっていることは善行なのだろうか、罪滅ぼしなのだろうか。その答えが分からないまま、ただ頭のどこかがこのままではいけないと考えるのをやめず、そこから今に至っている。
 淹れる時間を計る砂時計をひっくり返す。安らぐようなこの香りを吸い込むたびに、紅茶を渡す老人の青白い手を思い出して、頭のどこかで考える使命感のようなものがより一層強まる気がしてならなかった。

 この家は軍医時代に譲り受けたものだ。この街では二階以上の建物が少なく、その中でもここの三階建ては非常に珍しい。その貴重な三階にはほとんど医術書で埋まった本棚しかろくに置いていないが、部屋から街を一望することができる。低い屋根の並ぶ景色を見下ろすと分かるが、こうした高い建物があること自体、家主の権威を表していると言えるのかもしれない。
軍に所属している者だけが得られる過剰な程の権利の数々を、――あの頃の僕は全て利用してやるつもりで使っていた。軍という巨大な組織に所属こそしていたが、金も環境も人脈も使い放題の中で自分の目的さえ叶えば周囲などどうでも良いに等しかった。
 いる以上指示には従うが、こちらの要求にも答えてもらうというギブアンドテイクの意識を勝手に持っていた。持っている全部を使ってやるつもりだったせいだろうか、どうして向こうに敵視されるという可能性を鑑みることができなかったのか。結果として僕が得たのはこの家と多くの薬と医術書だが、本当に欲しかったものを得られたわけじゃない。失くしたものも大きい。ただ軍医に戻りたいかと聞かれても、緩やかに負の方向へ向かっているこの街を見ていると、そうだと思うことはとてもできなかった。

軍が国外政策を強める方向へ指針を定めたときから街の様子は変わっていった。予算のほとんど全てが国力の強化に注力されるようになり、それに伴い各街は衰退しつつある。だけどそこに反旗を翻そうものなら、街を駆け回る監視の目に何をされるか分かったものではない。街の人々が僕に縋りつつもそれ以上の言葉がないのは、僕が強大な権威を持った軍から出てきた人物だと知っているからだろうか。とうの僕はあの権威への執着など欠片もなく、むしろ監視の目を僕に対して強くされていることに甚だ迷惑をかけられているというのに。
薬や処方箋、治療具の数々を鍵のかかった棚に置いてあるのは軍の目をかいくぐるためだ。無償の医療など、信じられないほど高額な医療費で病院を運営する軍が許すはずがない。身を隠さなければならない理由に納得はいっていないものの、もし見つかれば僕以外の人々にも危害が及ぶかもしれないことを考えると大っぴらに動くことができなかった。
停滞と沈下を繰り返す灰色の街。工場から吐き出される煙は日毎に増えているようにも思える。患者の数だって同じだ。煙に喉が絞められているのだと言いたげに苦しそうな呼吸をする子供や、賃金の見合わない労働を行ない手から腕にかけて皮膚の荒れが酷くなった青年。…悪くなっていくばかりなのは何も臣民だけではない、軍だって――。
いつからこうなったか思い出そうとすると、ちょうど僕が軍を抜け出してからだと記憶しているが、はっきりとした時期は思い出せない。ゆるやかに、だが確かに目に見えて分かりやすい速さで崩れていく日常。
変わることなどあるだろうか。いや、変えられるのだろうか。一体、どうやって?

夜が来た。夜は朝と似たような沈黙を持つ。恐ろしい誰かが見ているのではないかという恐怖を伴った沈黙に人々は身を潜める。ただ、朝と違う点は、怯えて身を隠しながら、それでも行動することを選ぶ点だった。
外と同じように何の音もしない僕の家に、コンコンと扉を叩く、小さな遠慮がちな音が届いた。
夜は診療の時間だ。僕を警戒している割に軍は迂闊なのか、夜の巡回に出る時間を変えていないようだった。そのため、一度に大人数を見られるわけではないが、こうして家に人を招いて診察することができた。
ドアを開けると人が何人か一気に入り込んでくる。なるべく人目を避けるようにドアを開けたら入るように僕が言ったのだ。数を確認する。今日は三人で、うち一人が子供の薬を引き取りに来た者だ。それぞれの手には紙袋があった。その中に何が入っているのか見当がついて少し辟易した気分になる。
 最初は治療費として分かりやすく金銭を渡そうとしてきたのを僕は拒んだ。こんなことは商売として成立もしなければ、金欲しさにやっていることでもないと言えば、彼らは代わりに食料を渡すようになった。それもいらない、報酬になるようなものなど何もいらないと答えても、今度は譲らなかった。
「そんなに痩せていてはいつか倒れてしまう」「こんなに助けてもらっているから、せめて食べ物の一つでも」等々、いつも余計な一言を添えて僕の手に押しつけるのだ。その食べ物を少しでも多く自分の家族に分けてはどうだと言ってもなかなか聞かない。
 今日もまたそうだった。薬を渡すとそれと交換するように紙袋を差し出される。返事を分かっていても一度は断るが、やはり押しつけられるような形で渡された。中を見ると今日焼いたのだろうか、もう冷めてはいるものの香ばしい匂いのパンが、一度では食べきれないほど入っていた。
 申し訳ないような、言うことを少しは聞いてほしいような、色々な感情がない交ぜになった胸中をどう表して良いのか分からず目を伏せると、一人でこんなに大きい家に住んでも大変だろうから、と穏やかな口調で言われる。一人でこんなに多くのことをこなしていれば大変だろうから、と。
 確かに僕はこんな広い、人を一度に何人も招き入れることができるこの家で、たった一人で暮らしている。三階以外は物をあまり置いておらず、空間をすべて使っているとは言い切れないこの家は、他人から見れば持て余しているように見えるかもしれない。ただ、軍が家を寄越してくれるという話を持ちかけたときに、広い家にしてほしいと願ったのは僕の方だった。論文や治療に使う道具の多くを置くことができるという些末な理由だったため、今現在まさか人を診療するうえで暗躍するとは軍医時代には思ってもみなかった。
 先生、と声がかかって意識が外に戻っていく。顔をあげれば、笑ってはいるものの疲労を隠せない人々が僕を見つめて、それから頭を下げた。弱々しく丸められた背中に、礼には及ばないという一言を出すのでやっとだった。それから、無理だとは思いつつもあまり外に出ないように忠告する。工場の煙が日ごとに増えていくこの状況下、呼吸器官を患っているものは一向に良くならないだろう。
 案の定、人々は薄く笑ってそれは難しいと答えた。軍からの徴収はこの先ますます厳しくなっていくだろう、と。その顔に、紙袋を抱える自分の腕に力が籠もっていくのが分かった。ただ、と付け足す言葉が聞こえる。顔を見れば今度は完全に笑っている顔だった。
 近々、良いことが起きるかもしれない。もしかしたらだけど。明日の正午、噴水広場に来てみるといい。この家で聞いたこともない、期待に弾んだ、未来を思う声。正直少しの戸惑いを覚えずにはいられなかった。
 良いことがあるかもしれない、だと。街の大部分が灰色に染まっているようなこの場所で。一体それが何だと言うのだろうか。何の想像も浮かばず、ただ無謀ではないかという少しの諦念が僕の中で生じたことには違いなかった。

 不穏な殺気で全身を覆った軍の気配もなくなり、人々が活発に動き始める昼。ここ最近続いていた日常。それが今日、もしかしたら良い方向に変わるかもしれないらしい。そんな言葉を受けて僕の足は自然と広場へ向かっていた。
 いったい、何が変わるというのだろう。僕自身が何を期待して広場へ向かっているのかも分からなかった。ただ、緩やかに落ちていくばかりのこの状況に変化が来るというのなら、それを見てみたいと思った。…こうして何かに縋るような行為自体、僕一人では限界が来ていることを示しているようで不甲斐なかったが。
 正午にはまだ早い時間だというのに広場には噴水を中心に人だかりができていた。あたりを見渡すと、人々の顔は明るく、どうやら噴水近くにいる人物に声を投げかけているようだ。この街では考えられないような賑やかさに思わず少し眉を顰めてしまう。元々うるさいのがあまり得意ではないのだ。
 人だかりは大きくなる一方だった。中心にいる人物が誰なのかを見ようとしても、近づくのにも一苦労だ。いったいこれから何が起きようとしているのだ。中心の人物に声援を投げかけて腕を振り上げた人にぶつかり眼鏡がずれる。一瞬、全身に緊張が走って眼鏡の位置を直す。左目は誰にも見られたくはなかった。何かを言おうと思ったが、肩を振り上げた人物は僕に気づくことなく中心に向かって声を投げ続ける。その顔はとても楽しそうで冷やかしなどの意思は感じられない。自分が動くたびに誰かにぶつかり、誰かが動くたびに僕にぶつかっている気がした。
 いったい、何だと言うんだ? 人いきれに肌が少し汗ばんできた。はっきりとした不快感に顔を眉どころか顔までも顰めてしまう。人々全体が実体のないものに浮かれているようにも見えて、もう帰ってしまおうかという考えが浮かび、ただ――こんなに人々を巻き込む人物が誰かを見てみたかった。
声をかけて少しずつ中心へ向かう。噴水の音が近づいてくるにあわせて人が減っていき視界も明るくなってくる。姿はまだ見えない。――声が聞こえてくる。この場にいるどんな人間よりも明るく弾んだ、調子の良い声。前に進むと言葉もハッキリと聞き取れるようになってきた。
 ふと、身体が軽くなる。最前へ出たのだ。まず目に飛び込んできたのは噴水の水しぶきだった。空は相変わらずの曇り空だというのに、そのわずかな光さえも吸い込んで水しぶきが反射して光る。視界が光に塞がれたように眩しくなり、目を細めれば何も見えなくなる。その次に目に入ってきたものは、――胸を張った姿勢で堂々とした立ち姿の男だ。腕を広げ、これでもかとばかりに朗々と声をあげ、放った言葉が矢のようにぶつかる。

「真正面から立ち向かってみんなの声を届けてみせるさ! 俺はこの街のヒーローになりたい!」

 それが僕と彼との出逢いだった。