無彩色の手触り

 水無月、湿った空気が月の輪郭を曖昧にさせる夜のことだった。

 フウガさまに呼び出され部屋に入ると、フウガさまのお顔が一部だけ灯篭に照らされぼんやりと浮かんでいた。口許は笑みを取り繕っていない。
 『カエン、このあと』と告げられた時点で、私があと少しで辿る運命は決まっていた。それもそのはずだ、と思うが、そこに諦念などはない。そうしたのはあくまで自分だ。
「フウガさま、何用でございましょうか」
 言葉はしばらくなかった。私の視界では、フウガさまの影が時折、風で火が揺れるのに合わせてゆらゆらとなびいた。
「おぬし、里から抜け出ようとした彼奴は仕留めたか?」
「はい。命じられたとおりに」
「確実に、息の根を止めたんだろうな」
「ええ。脈も息もないのを確認したあと、森の深くに埋めました。あれでは雨で土が流れても気づかれはしません」
 今日を振り返ると、死後硬直の始まった肉体の重さが思い出された。頸を切られ青ざめた顔は見知ったものだった。今ごろは木々の根や土と同化し始めているかもしれない。当然の報いだった。
 このやり取りを、月が姿を見せる前の昼時にもおこなった。一言一句同じだ。もちろん、出来事の確認などではない。里から出た者が命を落とすように、フウガさまは私に罪を自覚させんとしているのだ。
「カエン。——一人じゃなかったそうだな」
「‥…えぇ」
「状況は正確に伝えろ」
「途中、ゴンゾウに入ってもらい、二人で始末しました」
 正確には呼んでいないゴンゾウが入ってきた、だが、大きな違いはない。二人で片付けたことには変わりないのだ。この質問は初めて受ける。私は聞かれたことを、その通りに答えた。
 今日の任務は、一人で全て終わらせるつもりだった。しかし向こうは、都の妖光に目が眩んで里を抜け出したばかりではなく、里から追われているのも分かっていたらしかった。
 想像していたよりも随分速く反撃されて、その一撃で仕留めるはずが終わらなかった。しかし、体勢を変えることなど造作もない。次の一手で殺す、そう判断した瞬間に横槍が入った。
 ゴンゾウは私を心配してついてきたらしかった。余計なことを、とは言わなかった。二人で同時に彼奴の息の根を止めた瞬間に、この場面も監視されていることには気がついていた。そして同時に、この部屋で私が受ける仕打ちも、ある程度察せられた。
 フウガさまは灯篭から蝋燭を取り出した。空いている手で跪いている私の顎を掴み、顔を上げさせる。
 この方の瞳を覗くと、私はいつも夜を想起する。今宵のような、淡い月明かりすらなく、火の明るさすらも吸い込む。
 そして、己は夜ではなく、その闇の中で生きていることを真に理解するのだ。何度も。
「私は、おぬしにしか命じていないはずだ」
「おっしゃる通り。フウガさまから私へ拝命された任務を、私自身が破った」
「何か言いたいことは」
「ございません。私が申し伝えたこと、全て事実です。命(めい)に背いたこと、心苦しくてなりません」
「そうか——」
 ——赤い火は間近で見ると白くとても眩しいものらしい。こんなに近くで見たことがなかったから、知らなかった。
 顔の半分が炎に巻き取られ、すぐに人の肉が焼ける嫌な匂いが立ち込めた。痛みよりもそちらの不快さに顔をしかめる。
 裏切り者の苦しみに悦びを見出すフウガさまはしかし、私を見てもにこりとも笑わなかった。ただ、炎越しに私をじっと、静かに見下ろしている。漆黒の瞳は、炎に照らされてもその表面は揺らがない。
「ぐ、ぅ……」
「痛いか、苦しいか、カエン」
「……っ」
 どう言葉を返すべきか考えていると、火がゆっくりと離れた。
 じくじくと爛れた肌に湿気がまとわりついて沁みる。目は焼かれなかったらしい。フウガさまのお姿はまだはっきりと捉えられた。
 触れるか触れられないかの距離で、フウガさまが私の火傷を撫ぜる。その風は冷たく通り過ぎていく。
 ふう、と吐息とともに火が消えた。辺りは一気に暗くなり、誰も彼もの姿が溶けて一瞬、何もかもを見失う。
「次はないからな」
「有難うございます。次からは、必ず」
 痛みなどどうでもよかった。ただ、ゴンゾウに見つかると少々厄介だ。夜が明ける前に、何かしらの手を打たなければ。
 立ち上がり、部屋を出ようとする。間際、フウガさまから最後にお声がかけられた。

「カエン、お前は裏切ってくれるなよ。お前だけは」
「……当然です。私の命は、フウガさまと共にございます」

 そう告げ、後にした。忸怩たる思いに顔をしかめると、焼かれたところの筋肉が突っ張り、ようやくまともな痛みを自覚した。

 言ったとおりだ。私の腕、脚、命はフウガさまのものだ。
 そしてこの痛みも、我が主のものなのだ。フウガさまが私を信じられないと言うたびに、己の不甲斐なさにどうにも声をあげたくなる。
 あの人は、悲しい。ご両親から見向きされなかったために、誰かへ目を遣る術を知らない。
 私がこうしてお傍に仕えても、瞳は何の姿も映さない。せめて、私の両目も貴方のものであるから、貴方しか映していないと伝えられたら。
 それを示すには何より、あの方の描く通りに動くのがいい。何より、あの人が里の未来を拓いていくのが、私の心願だ。
 フウガさまが触れかけた火傷を指でなぞると、ざりり、と皮膚だったものが感覚を走った。このざらつきが、あの人の心が映し出されたものだと思うと、私は初めて痛くて堪らなくなった。

《了》