夜来香

 貴方と私が別れてから、何日が経ちましたでしょうか。貴方が聞けば瞬時に応えられますが、時には自分で調べることも必要です。剥がれてゆく暦を意識したとき、私に関する何かひとつでも思い出していただければとても幸いです。
 この前お渡ししたリストはお役に立ちましたか? モクマさんのつけていたテレビで、見たことのある名前の人間が逮捕されたと知ったとき、私は胸を撫でおろしました。エリントンでも貴方の淀みない、真っ直ぐで人を射抜く正義が遺憾なく発揮されているのを知るたびに安らぎを覚えるのです。
 勘違いしないでいただきたいのは、ボスが少し前のように警察内で悶々と過ごしていると思っているわけでは決してないことです。それでも、こんなに遠い街にいても貴方の存在をふとした瞬間に感じるのは、なんだか奇妙な心地です。

 遠い街、と今しがた書きました。ボスは私から小包が来るたびに、一体どこから届いているのか不思議に思ったことはありませんか? 私がどこで生きようが勝手なはずなのに、貴方という人はそういうことも見逃さず、放っておいてくださらない方だから。
 私はもともと闇に生きる者、居場所を告げるのは素肌を晒しているのも同然なのですが、ボスには特別にお教えしましょう。
 今は、そうですね。どこからともなく漂う花の香に満ちた、レンガ通りの美しい街にいます。モクマさんは鼻が慣れないのかよくクシャミをしていて、共に歩くにはやや風情に欠けます。
 それもそのはず、この街は香水の名産地なのです。その話は以前から知っていましたが、調べてみたところ、世界生産の1割とこの小さい、絵本のような街が占めているのを知ったときには少々驚きました。しかし、一番驚いたときは飛行機から降り立ったとき。その瞬間から、ジャスミンの瑞々しさが私たちの肌をかすめていきました。この街そのものが香水だとでも言うように。
 今、私たちが宿を借りているところの近くには薔薇園があるそうです。時間が許せばぜひ歩いてみようと思っているところです。
 私は、いい香りのものが好きです。母も生前は気分によって香水を使い分けていたのをよく覚えています。香りの印象は記憶に根強く残るものですから、敵のところへ向かうときは極力何の匂いもまとわないようにしますが、お気に入りの香りをふとしたとき――料理や街並み、すれ違った人の中に見出すと、ほんの少しだけ胸に悪くない感覚が降り立つのです。
 ここの名産は、空港からその存在を現わしていたジャスミンだそうです。しかし、私のお気に入りの香りは違います。何だと思いますか? オフィスの、本当に休まるようなときにしか身に纏わなかったので、わからないかもしれません。しかし、貴方は間違いなく知っている。今度、答え合わせでもしましょう。
ところで、気になるのは、どうやらこの街のある地域にしか群生しない花があるという情報です。それ以外には、どんな香りなのか、そもそもどんな花なのかもまだわかっていません。この街の人々は観光向けにはよく仕上げられていますが、反面、余所者が一定のラインを踏み越えようとすると嫌がる傾向にあります。
 それでも、モクマさんと共に探してみるつもりです。香りの記憶はなかなか消えない。もしかしたら自分の好みとはかけ離れた、酷いものの可能性だって充分ありえます。私も随分活動的になったものです。誰かさんのせい、いやおかげだと、私は確信しています。

 ……なぜ、この街にいるのかって? それは秘密です。
 わかったときには、ぜひ遊びにいらしてください。ここまでお読みになったボスは、そのときには私たちが既に別の国へ飛び立っている、とお思いになるかもしれません。しかし、それはそのときにならないとわからないでしょう。

 エンターキーを押す音がいやに大きいな、と思って数秒、我に返って顔をあげた。
「あ、あぁ! またやらかした……!」
 フロアには僕以外残っていない。というか、僕のいるエリア以外は消灯すらされてしまっている。誰か声かけてくれたっていいのに……とちょっとだけ恨み言をこぼしつつ、またもや時間を忘れてしまったことを悔いる。
 集中の糸が切れると身体の力が急に抜けて、背中や肩に痛みが走る。ここまでヘトヘトだとお腹が空く感覚すらなくなって、家のベッドがただ恋しくなる。
 面倒さが勝って仮眠室で過ごそうとも考えたけど、腕時計を確認する。うん、今から出ればコンビニエンスストアでスープとサラダくらいは買える。結局朝もゆっくり食べていられないから、夜も少しだけ食べておいたほうが身体も休まるだろう。
 見られてもぎりぎり平気な程度にデスクを片付けて、カバンにノートやペンケースを突っ込んで急いで外を出る。とっぷりとふけた夜は、どこからともなく犬や鳥の鳴き声がするだけで、あとはたまに車が通るくらいだ。電気が点いている家もまばらで、みんなおとなしく眠りに就いている時間なのを再認識すると、疲労感が身体にのしかかってきた。
「眠いなぁ……」
 そう呟くと、答えるようにどこかで犬が遠吠えをした。アーロンが側にいたら間違いなくお笑い種だろう。ふとしたこういう瞬間を狙うみたいに、側に相棒や仲間たちのいない寂しさが胸に湧きそうになって、堪えるためにも背を無理やり伸ばして、急ぎ足で家へ向かう。

 少し前から僕含めて警察内は麻薬密輸・密売事件にかかりきりだ。今日はたまたま一人しか残っていなかったけど、こんなふうに夜遅くまで調査や情報整理に追われているのは僕だけじゃない。警察にもやる気のある人が増えて嬉しいけど、上層部は事件と労働時間超過の二つですっかり苦い顔になっている。
 それもそのはずで、この事件は解決の糸口が掴めないうえに、もともとはエリントンで起きた事件じゃない。でも事件の規模は国外にまで広がってきて、犯人は国際指名手配を受けた。近隣国のエリントンにも犯人が来る可能性が出てきたわけだ。
 しかも、犯人の行動範囲は少しずつこっちに近づいてきている。汚職と隠蔽にまみれた警察組織として悪名高くなった我が警察本部は汚名返上しようとやる気を出したまでは良かったけど――犯人の輪郭すら全然描けないのだ。
 被害者はレギュラーな薬物のどれにも当てはまらない症状に見舞われる。ヘロインやLSDなんて目じゃないほどの快楽、万能感に溺れるのはたった一瞬。そのあとは想像を絶する禁断症状の地獄が待ち受けている。酷い人は皮膚をはじめとした身体の表面にも症状が出てきていて、病院には中毒患者が少しずつ増えている。
 ここまでわかっているのに、あらゆる検査をしても特異な成分がヒットしないのが、僕たち警察や医者の頭を悩ませていた。最近になって軽症状者からようやく得られた証言は、「すごくいい匂いだった」というものだけ……。
 これだけで出どころなんてわかるはずもない。いい匂いって、洗剤? 花? フェロモン? この世にいい香りのものなんてごまんとあふれている。製薬会社や医療機関にも協力してもらって、幻覚作用のある香りを調べてもらっているけれど、今のところ結果は芳しくない。
(いい匂いかぁ……)
 歩きながらそのことについて考え事をしていて、うっかりコンビニエンスストアの前を通り過ぎるところだった。慌てて引き返して自動ドアをくぐると、すぐにホットスナックの匂いが鼻をくすぐった。
 レジ上のガラスケースで温まっているフライドチキンやフランクフルトを見て、急にお腹がぐうぅ、とそこそこ派手に鳴った。うぅ、食べたい……けどこんな時間にスナックは身体にダイレクトに響くに決まっている。麻薬事件と並行して、普段の業務であるパトロールや近隣区域への指導なども控えているんだ。
 長居したらヤバい。空腹に屈する前に僕は棚からサラダとクラムチャウダーを掴んでレジに持っていった。
 夜ご飯、またこれだけだな……。悲しみを覚えると――空腹に紐づけられて、ある男の顔がふっと浮かんだ。
「あぁ……」
 思わず長い溜め息をついてしまい、店員に訝しげに見られたのを、苦笑いでなんとかごまかした。やっぱり仮眠室で寝るべきだったのかもしれない。

 真っ暗な家の電気を点け、そのまま顔を洗ったり部屋着に着替えたりほとんど寝支度を済ませた。電子レンジにクラムチャウダーを入れて温まるのを待つ間、棚からかつてはクッキーを入れていた缶を取り出した。
 上品なレース模様と花の絵が描かれたこの缶は、もともとずいぶん前に自分用のお土産に買ったものだ。中身が目当てだったけど、この缶も収納に使えるんじゃないかと思って取っておいて、しばらく存在を忘れていた。でもこれなら、――チェズレイの手紙をしまうのに、なんとなく合う。
 最後に届いたのは、一週間ほど前だったか。本でもらったときほどじゃないけど。チェズレイからの便りは分厚くふくらんだ封筒と共に届く。ときどきそれが、野菜や果物の入った小包と共に来ることもある。……まるで僕が無茶しているのを見計らったタイミングで。多分次は一週間以内に来る気がする。
 最後に来た手紙は、チェズレイとモクマさんが香水で有名な街にいるというものだった。旅行なんて全然行けていない。ハスマリーやミカグラ島に、どれだけ行きたいと願っているか。そこに四人でいれば、事件の気配は帯びつつもきっと楽しいに違いない。
 でも現実はとても忙しいし、それに――かなり申し訳ないことに、僕はチェズレイに全然返事を書けていなかった。
 手紙を書こうと思うと、何から書けばいいのかかなり悩んで時間ばかりが経つ。せっかく迷いに迷ってチェズレイに合うような封筒と便箋を選ぶところまではやったのに。そして僕が筆先をうろうろさせている間にもチェズレイから返事が来るんだ。
 ……正直、僕が返事をしていないのに機嫌を損ねていないのか罪悪感を抱きつつも不思議だ。直接会ったらあの涼しくて妖しい魅力のある笑顔で嫌味のひとつでも飛ばされそうだ。
 そして、返事が書けないのにはもう一つ理由がある。チェズレイがどこにいるのか、わからないのだ。
 DISCARDの一件以降、僕たちは直接顔を合わせていない。来るのは手紙だけ、しかも一方的に受け取っている。流れるようなチェズレイの筆記体に目を落として、僕は宛てのない返事を考える。
「遊びにいらしてください、か……」
 チェズレイは手紙もまめだ。僕の身体を気遣って食べ物――使ったことないまま机にしまっているけど危険な薬――も送ってくれる。でも、そのときに自分がいる場所は絶対に明かさない。伝票はいつも宛先も送り主も僕の名前だ。丁寧なことに、伝票に記入する文字まで僕を真似ている。
 闇に生きる者。手紙では何度かこの言葉が使われていた。事実、チェズレイは裏社会の人間で、僕は警察官。つながりがバレれば世間体は悪いに決まっている。彼の居場所がわからないのはそのこともきっとあるはずだ。
 そうは頭で理解しているけど、せめてどこに返せばいいのかくらい教えてくれたっていいのに。だって、僕たちは交わることのないかもしれないけど、一度、同じ場所にいたんだから――。
「あっ! 忘れてた」
 ペンをくるくると回しながら、どこから書こうか考えあぐねているうちに少し時間が経ちすぎていた。慌ててレンジからちょっとだけぬるくなったクラムチャウダーを取り出して、ひとまず便箋セットを片付ける。
 サラダもつつきつつ、最後にゆっくり料理をしたのがいつだったかを思い返す。そのときは、チェズレイがくれた野菜と奮発して買った牛肉で煮込み料理を作って、フルーツもありがたく頂いたんだっけか……。どこ産か突き止めたころには、チェズレイから次の手紙が来ていた。
 香水の名産地か。随分わかりやすいヒントをくれている気がする。ふと、麻薬事件の唯一の証言である「とてもいい匂いである」という言葉がよみがえる。
「もしかして……、……はっ、ダメだ!」
 また思考に没頭してしまう寸でのところで我に返った。もう寝る時間も惜しいから、行儀は良くないけれどスープをずず、とすする。明日も大変だな、と思いつつ、頭の隅ではチェズレイの現在地と事件が一本の線で結べないか、ついつい考えてしまっていた。
 思うというより、共通点を見出して信じたくなる。これはまさしく正体のわからない闇の事件で――チェズレイ、君と僕はもしかして、ずっとわからないままの距離が、近づこうとしているんじゃないか?

 ボス、ごきげんよう。まず先に、小包の中をご紹介します。
 今回はアプリコットにブルーベリー、そして薔薇をそれぞれジャムにしたものをセレクトしました。ボスは甘いものがお好きでしょう。パンやヨーグルトのお供にどうぞ。紅茶と併せても美味ですよ。
 この中で特にお勧めしたいのは、やはり薔薇でしょうか。変わり種かもしれませんが、あの芳醇な香り、花弁の瑞々しさをそのまま閉じ込めたかのような味わいです。今いるところの定番のお土産だそうです。きっと気に入っていただけると信じています。
 さて、ここまでお読みになって、聡いボスのことですから既にお気づきでしょう。私とモクマさんは、前に手紙をお送りしたときと居場所を変えていません。もともとこんなに長居するつもりではなかったのですが、私でも躓くことはあるのです。
 何に躓いているか。それはこの地にしか群生しない花のことです。手を変え品を変え、時には姿かたちも変えて聞きまわっているのですが、意外なほど難航しています。
 モクマさんは私の涙ぐましい教育の甲斐もあり、この地の美食を堪能するための細かなマナーがしっかり身についてきました。もっとも、こんなに素晴らしい街にもかかわらず本人は早く出国したそうですが。

 ボス、私はやはり街一番の歴史を誇る、あの教会が怪しいと睨んでいます。そんなに大きくない街ですから、モクマさんと二人で、あるいは手分けしてこの数日でほぼ全域の植物園を調べてみました。
 その聖堂にも、建物の大きさに似つかわしくないほど立派な薔薇園がありました。
 驚くことに、淡い紫色の花が満開です。その色彩は、ミカグラ島で見かけた藤の花にも似ています。貴方にお送りしたのも、私がこの街で見てきたのも血のように滴る紅色ばかりだったから、少しばかり虚を突かれた気分でした。
 ただ、この世には人にはとても数えきれないほどの花があるのを思えば、これくらい予想の範囲。気になったのは、教会から少し離れたところにある温室です。あそこでは何を育てているのかと修道士に聞いてみたところ、自給自足のための野菜や果物だと答えます。
 しかし、あの広さで教会の修道士・修道女が食べていくには心許ない。そこも見学してもよいものかお伺いしましたが、観光客の立ち入りは教会までだと断られました。――あのときの彼の顔。ボスにもお見せしてさしあげたかった。とても人に言えないものを腹のすぐ下に抱えているのに、何もない、自分は至って正常だと振る舞うあの表情。今すぐにでもぶちまけてやりたかった。
 しかし、衝動的な行動は厳禁。一刻も早く鼻をあかしてやりたいですが、ここはやはり慎重に動くべきです。今の私は、さしずめ獲物を狙う虎といったところ。おそらく勝負が決まるのは一瞬でしょう。あと大事なのは、タイミングだけ。ボスならきっとこうなさると思ったのです。
 じれったいですが、その焦りがなんだか心地良くもある。手に掛けたい敵にもうすぐ辿りつけると思うと、不謹慎ですがわくわくします。私は機が熟すのを待つ間、ボスと歩き回ったかつての日々へ思いを巡らせます。

 あのときは本当に、楽しかった。
 こんなふうに自分の感覚に名前を付けられるようになったのは貴方のおかげです。自覚はおありですか? 私も初めて知りました。自分が歩いてきた過去に、あとから名前が付けられることを。
 こんなことを言ってはモクマさんに失礼でしょうか。いいえ、私はボスとモクマさんを比較したいわけではない。彼には私が死ぬまで付き合っていただかなくては困る、並々ならぬ背景があるので……。
 そうですね。今の日々を闇に満ちた、しかし暗いおかげで身も心も解き放ち、軽やかに動ける夜だとするなら、ボスと共に過ごした時間は、先の明るい陽射しのようでした。貴方が私にアドバイスを請うたり、ピアノを褒めたり、時には一緒に鍵盤を叩いて楽しいと言ってくださるようなひととき。
 あのときの私は、安らいでいました。鼓動は乱れていないのに、胸の内には確かに宿るものがある。後にも先にも、もうあんな時間を過ごせないと思うと、後ろ髪を引かれる思いです。だからこそ、私はこうして手紙をしたためてしまうのかもしれません。

 貴方と過ごした時間を反芻しながら、私は目星をつけている教会で、らしくもない物思いに耽りました。
 この街は敬虔な信者が多いおかげで大小問わず教会があります。しかし、私は特定の宗教を持ちません。神頼みだなんて、とんでもない。私からしたら一蹴したくなるものです。
 私には、信仰心というものがありません。祈りは胸の中で生まれて、行く先は朽ちるだけ。
 普段から信じてはいないくせして、自分が危機に陥ると神の存在にすがる人がたまにいます。私はそのようなことも、しません。全ては結果なのです。運がいいと思ったところで、それは単なる行動の帰結です。
 こんなことを言っては、貴方は私を冷めた奴だとお思いになりますか? そうだとしたら、いささか悲しい気もしますが、こればかりは仕方のない話です、だって私は、人が運だと思うものを自分で創り出すこともできるのですから。
 しかし、神の匂いを知らない私でも、ときどき思うことがあります。自分の中に、信じてみたいものがあるかもしれない、その可能性を。
 そのことを考えるとき、私は必ず最後、誓いのようなものを己に立てるのです。
 信じ、望み、そして耐える、と。

 それが、貴方のためになるなら。

 空港から降り立ってすぐに花の匂いに気づいて、飛行機の中からずっと持ちっぱなしにしていたチェズレイの手紙に鼻を寄せたら、係員にちょっと変な目で見られてしまった。
 だけどなりふり構っていられない。このむせ返る甘い空気の中で、ある特定の香りが一本の線みたいにある場所へつながっている気がした。
 警察側の同乗者はいない。国境を越えて調査に乗り込むと言ったとき、当然のように反対された。犯人はまだエリントンに乗り込んでいない、一介の警官がそこまで首を突っ込むべきではないと強く言われた。でもじっとしていられなかった。正体が「花」というところまではなんとかわかって、この知らせだ。関連を疑わずにはいられなかった。

 ほんの二日前のことだ。チェズレイからずっしりと重い小包が届いて、中には色とりどりのジャムが入っていた。
 ビックリしたけど、甘いものは大好きだから素直に嬉しかった。そしてどれどれ、と手紙に目を通すと――そこには、ちょっと意外なほどチェズレイの心境が書き連ねていて、読んでいて少しドキドキした。
 まるで、すぐ側にいるかのような語り口。あの頃は、本当に楽しかった。ぽつりとこぼすみたいに書かれた一文を見て、チェズレイが僕と話していると、ときどきどこかぼんやりした目つきで考え事をすることがあったのを思い出した。
 楽しかった、なんて。あんなに大変で、痛い目もたくさん見たのに。そっと書かれた気持ちになつかしさを覚えて、笑みをこぼしてしまう。
「聖堂かぁ……」
 エリントンにも教会はあるけれど、チェズレイが書くほど多くはない。父さんに引き取られて、スクールに通い始めてすぐに街の教会で合唱に参加させられて、けっこう嫌だったな。チェズレイが思い出を振り返るものだから、僕もなんだか過去へ思いを馳せてしまう。
 読み進めて、彼も今の滞在地で事件を追っていることがわかった。――でも、どうして僕にこのことを伝えるのか。決定的な何かは掴めないまま読み進めていく。
「……ん?」
 最後の一文は、疑問形で終わっていた。

『たまには私を思い出していただけますか?』

「……何言って」
 今こうして、手紙を読みながらまさに君のことを思い出しているのに。
 僕をちょっときつい嫌味でからかうときの涼しい笑み、前を歩いてくれるときになびく髪、ピアノを弾くときに意志の持った生き物みたいに動く長い指……どれだって、忘れるはずもない。僕だって、楽しかったから。
 チェズレイが今どこにいるのかはおおよそ見当がついている。いよいよ返事を書くべきだ。僕が君を忘れるはずがないと。それと何を言ってやろうか。チェズレイのために用意した便箋セットを取ろうと、棚に向かったときだった。
 チェズレイがくれた、淡いブルーの封筒から何かがはらりと落ちる。テーブルに着地したそれを拾い上げる。
 とても小さな、僕の指先ほどしかない黄色い花弁が集まってできた花だ。ミカグラ島で見かけた、線香花火と呼ばれるそれにも似ている。そして、少しギザギザした淡い葉が数枚。
「なんだろう? これ」
 長い旅を経て少ししおれていて、ちょっと力を入れすぎたら破れそうだ。慎重につまみながら、しばしそれを見つめた。彼がいるところで咲いている花かな。
 花の茎の部分をくるりと回してみる。踊るみたいに可憐だ。
 ――そのときに、ふと空気が変わった。自宅にいるのに、刹那の間だけ別の場所に塗り替えられたみたいだ。一瞬すぎてわからないけれど、僕はその場所を知っている。
 今の感覚は、一体。僕は花と葉に鼻を寄せる。
「……あぁ」
 そのあと、便箋にもその香りが乗り移っていたのに今さら気がつく。
 チェズレイ、ごめん。君のことを思い出していた、そのつもりだった。でも、記憶をつなぎ合わせてもパズルのピースをくっつけているのと同じで、必ずどこか欠けてしまう。
 完全な輪郭、そして奥行きを取り戻すには、やっぱり――会いに行くべきだ。
 手紙の返事なんかじゃとても足りないよ。何より、僕は今すごく、チェズレイに会いたい。交わるはずのない世界から、ずっとメッセージとヒントをくれていた君に。

 長時間のフライトに時差のダブルパンチでよろけそうになる身体を奮い立たせ、チェズレイが手紙で描いてきたとおりのレンガ通りを走る。
 あたりはもう真っ暗だ。行き交う人は少ないけれど、流れていく視界の中で、どんな人々も不快な顔で僕を見ているのはわかった。いきなり情報を集めようと思っても、これじゃうまくいかないだろう。何より、犯人がエリントンに入ってくるのも時間の問題なのだ。
 いや、こうしてちょっと目眩のする中でがむしゃらに走っているのは、犯人を追うためもあるけれど、――彼がこの場所から出ないかという焦りで心臓がバクバク悲鳴を上げていた。
 チェズレイがくれた残り香はとうに消え去り、代わりにとてもかすかな薔薇の香りがどこからともなく漂ってくる。僕は何度も何度も、彼と共に読み返した手紙の内容を頭の中で繰り返す。
 街の小さな教会。そこで初めて見かけた、紫色の薔薇が咲き誇る園。離れたところに温室を建てているのなら、それなりの敷地が必要になるから街の外れにあるんじゃないか? タブレットで自分がどこの道を歩いているかくらいはわかるけど、見知らぬ土地に、仲間どころか知り合いもいない。不安に揺り動かされそうになる足は、それでも止まらない。
 家並みがどんどん少なくなっていき、あたりが畑や拓けた土地になっていく。街灯もないままじゃさすがに走れない。タブレットのライトをつけると、まさに一寸先は闇。自分の足元しかわからなかった。
「くそ…っ!」
 ライトをできるだけ遠くに照らして、道が続いているのを確認した後は、そのまま肩掛け鞄に突っ込んで走る。近辺調査で使っている懐中電灯を持ってくればよかった。着の身着のままで国を飛び出した自分に後悔している時間は、ちょっとでも残されていない気がした。
 ――この道、どこまで続いているんだ? 分かれ道になったら、果たしてどっちに進めばいいんだ? 街とは違う、種類の違う暗闇にぞっとしてくる。あたりは鬱蒼としてきて、道もレンガから土に変わった。子どもがお化けを見出して怖がりそうな、そんな恐ろしさを孕んだ夜だ。
 風が木の葉を揺らして、街中に漂っていたいろんな花の香りを根こそぎどこかへ持っていってしまう。
 一旦冷静になるべきかもしれない。額を絶え間なく伝う汗を拭って、限界を迎えた肺を休ませるために息をついたときだった。
「……?」
 背すじを何かがゾワリと撫でた。もしかしたら、誰かが来た? 振り返り、後ろには何もない。だけど、――僕の横にはある。
「これ……」
 真横はすぐ森だった。通り道なんてない――本来ならば。細かい枝が軒並み切られていて、ちょっと無茶は必要だけど、人ひとりギリギリ通れそうだ。その奥から漂う、芳醇な香り。
 もう考える暇もなくて、僕は薮の中へ片足を突っ込んだ。
「……っ!」
 頬が葉や枝で切られて痛みが走る。もう、どこの上を歩いているのかわからない。でも、豆粒みたいに光っていた明かりへどんどん近づいている。薔薇の香りもどんどん濃くなっていった。
 無数の枝をかき分けて、節々に痛みが走る身体を無視する。これは、彼とは違う香りだ。もしかしたら、僕にヒントを与えるだけ与えて去った可能性だってある。だって、僕と彼は本来生きている世界が違うはずだから。
 それでも、――闇の中でなびくプラチナブロンドの髪を、潜入調査のときについていった後ろ姿が浮かんだ瞬間、堪らず腹から叫んだ。
「チェズレイ!」
 瞬間、世界が白く塗りつぶされた。――いや、これは白いんじゃない。レーザーで目を狙われたんだ。
 気づいたときには遅くて、腕で目を覆うけど、ギラギラしたまだらな光がちかちかして、どんどん気分が悪くなる。
 こんな隙を突かれるなんて。怒りよりも先に、攻撃されたらまずいという危機感が勝る。片腕で瞼を塞ぎつつ、腰につけていた銃を手探りで掴もうとした。

「まァ、酷い。私を撃つのですか? 呼ばれたから来たのに」

「――チェズレイ!? うわっ」
 腕をどかすけれど、視界はずっと白い。というか、目なんてとても開けられない。その眩しさは、ミカグラ島にいたときに立ったスイさんのステージを彷彿とさせる。
 そうだ、これはレーザーというよりスポットライトだ。それを間近で照らされている。さっきまで暗いところにいたのに、いきなりこんなに明るくなったんじゃ目がついていかない。こんなの、どこから持ってきたんだ?
「チェズレイ! なんだ、これっ止めてくれ!」
「すみません。久しぶりに顔を合わせるのは少し恥ずかしくて」
「何言って」
「言ったでしょう。私は闇に生きる者だから、そちら側には、行けません」
 ふわりと光の向こう側で、何かが蠢くのを感じた。その姿を見ようとしても、もう目が限界でつい腕で塞いでしまう。さっきからバタバタ腕を動かしている僕を見て、向こうにいるはずのチェズレイが小さく笑った。
「ふふ。ボスが私の名前を久しぶりに呼んでくださって、とても嬉しいです」
「……君が、僕をここに呼んだんだろう」
「ふむ、それもそうですね。遊びにいらしてください、と私は書きました。本当に来ていただけるなんて」
 視覚が頼れない中、ふわふわと夜風に乗って、さらりとチェズレイの長い髪が揺れるのがなんとなくわかった。髪は長いままなんだ。それだけでも理解できて、ちょっとだけ嬉しい。
 でもここまで来たんだ。せっかく長い長い手紙の果てに、こうして直接会えたのに元気なところを見られないなんてあんまりだ。
「……会いたかったよ、チェズレイ」
「そのストレートな物言い、相変わらずゾクゾクさせてくれますねェ」
「茶化さないでくれ! それに、モクマさんは」
「モクマさんは残党を追っています。もうすぐ私も彼と合流予定です。モクマさんが通った跡を、貴方は辿ってここに来ました」
 カツカツと飾り杖を地面に打ち鳴らして、チェズレイがこちらに近づいてきた。声が近くなったものだから驚いて身をすくませるのを喉で笑われる。
「温室で栽培されている花は、陽が強くなるごとに花弁が濃くなる。熟したような花びらを蒸留すれば、証拠も残さぬまま夢を見せてくれる魔法の薬の完成です」
「! やっぱり、君も麻薬を追ってこの街に……」
「私の視界でうろちょろするものだから、ちょっと懲らしめてやりたくて。ただ、栽培地がこんな可憐な花園だとは思いもしませんでした」
 チェズレイの手紙にあったような、紫色の薔薇が咲き誇る教会を眩しすぎる光の中で思い描いてみる。その奥に育てられている花が、まさかそんな凶器だなんて誰が想像できるだろう。
 きれいな薔薇以上のトゲがある。エリントンで今も苦しんでいる乱用者の虚ろな表情も一緒に浮かんできて、恐ろしいやら気分が悪いやらでくらくら目眩がする。
「そうだ、犯人は!?」
「首謀者は神にでも懺悔してもらおうと思って教会に縛り付けています。ボス、これは貴方の手柄です」
「え……」
「私の目的は、麻薬の密売ルートを根絶すること。でも貴方は、国境を越えてまでここまで犯人を捕まえに来ました。どうせ上司を言い伏せていらっしゃったのでしょう?」
「……」
「貴方はここまで心血を注いで調査に励んできた。その結果が出た、それだけですよ」
 チェズレイが、ここまでの未来なんて既に見透かしたうえで笑っているのがまさにありありと見える気がした。
 運命すら創り出す、稀代の詐欺師。僕は思いの丈を綴られた手紙の、いったいどこから彼の掌の中へ引き寄せられたのか。ここは、花の満ちる場所。ようやくゴールを見つけた蝶の気分だ。チェズレイは、その花を管理する人間で、全部を初めからわかって――。
「そ……そんなの納得できるもんか! 僕は君の助けがなかったら」
「……本当に、相変わらず底抜けにお優しい人」
 もう見えなくてもいい。がむしゃらに手を伸ばすけれど、手の中には何も掴めず、香りも僕から逃げてしまう。もう時間だ、とチェズレイが少しわざとらしく溜め息をつくと、足音が遠ざかっていく。
「ま、待ってくれ!」
 彼が消えてしまう。だから、一度思い出した大事なことを強く頭に焼きつけるために、精いっぱい光に向かって叫んだ。
「ディルとパチュリ!」
「え?」
「答え合わせだ。チェズレイの好きな香りだろう? 君の手紙で思い出せた。――ピアノを隣で弾いてくれているときと同じだって」
「……」
「チェズレイ。君が例え住む世界が違うって言っても、僕の大事な仲間だ。だから、……チェズレイのこと、ずっと思ってる。君が僕のことを思うのと、同じくらい」
 拙い手つきで鍵盤を弾いた瞬間をよく覚えている。下手くそだけど、チェズレイの旋律と合わさるとひとつのメロディになって、不思議だったけれど本当に楽しかった。
 その楽しさを教えてくれたのはチェズレイだ。僕も、――あのときのチェズレイと同じ気持ちだったって思っている。それだけじゃない、二人だからできたことが、他にもいっぱいあったはずだ。手放すつもりなんて毛頭ない。
「表の世界はボスにお任せするつもりだったのに、どうしてでしょう――無性に会いたくなってしまいました」
 語尾が消え入りそうで、彼に似つかわしくない頼りない口調だった。チェズレイのほうこそ、手探りで何かを探しているような。
「この気持ちに名前をつけるのには、もう少し時間がかかりそうです。なにせ、貴方に与えられたものだから」
 フッと影が落ちる。恐る恐るまぶたを開けると、チェズレイの姿はない。

「たまには、私のことを思い出していただけると嬉しいです。それだけで、違う世界に生きる私たちはつながれるはずです」

 その言葉は、明かりひとつない元通りの夜に溶けて、すぐに消えてなくなる。
 風が髪を撫でて過ぎていく。僕の目の前には、人を惑わす花を育てる巨大な照明があった。
 目が慣れると、ここは薔薇園のすぐ側だった。淡い紫色の花びらが、枝を埋め尽くすように咲き誇っている。土や森に負けないくらいの豊かな香りで、胸はあっという間にいっぱいになった。

 ――そのあと、犯人は無事に逮捕したけど、上司にはなぜか怒られたんだ。やっぱり、強引すぎたかな。でも、本当に君に会いたかったんだよ。これだけは信じてくれるかい? ちなみに、花は無事に鑑識に回されて、症状は抜けきらないものの、抑制剤はつくれそうとのことだ。あんな花があるだなんて、街の一部の人たちしか知らなかったみたいだよ。
 君がこの手紙を読んでいるころ、僕はエリントンにトンボ返りで空の上だろう。泊まっているホテルは、地元の人に聴取したんだ。特徴的な二人だからね、事件で大騒ぎになっている今がチャンスだと思って、目撃情報を基にホテルを突き止めてフロントにあずかってもらった。
 うーん、でもちょっと……ストーカーみたいだなって自分で思っちゃったから、次は君がまた教えてくれるのを待つことにするよ。
 あそこの神父さまは、街中の人々に慕われていたらしい。証拠は次々と出てくるのに、しばらく住民は信じもしなかった。きっかけは資金源に困って仕方なく……というありがちなものだったけれど、ああもあっという間に悪に堕ちてしまうと思うと、人間は計り知れないなってつくづく思うんだ。
 この手紙を書いているとき、チェズレイが何度も僕と生きている世界が違う、って言っていたことの意味がようやく芯を持ってわかった気がしたんだ。神父さまだって、最初は教会の人たちを養いたい、そういう思いであの花を育て始めたんじゃないかな? それが、どうしてこんなふうに……ついつい考えてしまう。本来いるべき場所じゃないところに人が足を踏み入れたが最後、もう戻れないんじゃないかって、不安にもなる。
 それでも、僕はチェズレイのことはずっと大切な仲間だし、それは君がどんな場所にいても変わらない。
 どうしてかって思うかい。言ったことあるだろう、君を信じているからだよ。
 僕にとってはそれだけで充分なんだ。なんて言えばいいのかな……僕もうまく言葉が見つからないや。ただ、これだけは確かなのを、君のほうこそ忘れないでくれよ。僕だって、チェズレイと過ごした日々は本当に……すごく大切にしているんだ。
 モクマさんにもよろしく伝えておいてほしい。でもやっぱり、二人に直接会いたい。君は嫌がるかもしれないけれど、僕はまたどこかで仲間と巡り合うのを心から祈っている。
 それじゃあ、また。どうか元気で!

P.S.
 紙袋の中は、君の好きなものだよ。せっかく香水の名産地に来たからと思って。気に入ってくれると嬉しいな。僕も初めて香水を買ってみたよ。どの香りだと思う? 次、チェズレイに手紙を送るときにでも答え合わせをしよう!

《了》