激情は血の色

「血が繋がっているからって知ったとき、どういうことか分からなかったんだよね」

 すりガラスのやわらかな光に照らされる少年の頬は薄紅色のままだ。そこに微笑みをたたえると天の使いのごとき美しさであると、入学当初に騒がれていたのは私の耳にも入ってきていた。
 一条くんは穏やかな佇まいで教会の長椅子に腰かけている。しかし、灰と碧の混ざった神秘的な瞳は私を映しておらず、神秘的を通り越して何を考えているのか知れない、かすかな不気味さがあった。

「兄さんとずっと暮らしたいと言った日のことを、自分でもよく覚えている…」

 私に語り掛けるでもなく、顧みたことをそのまま読み上げただけの無機質な声。この姿を見ていると、下級生にして聖夜祭での賛美歌の独唱に選ばれたときの、私に報告をした弾んだ声色と煌めく眼を今にも思い出せなくなりそうだ。
 教会の鐘が鳴る。一般生は帰宅、寄宿生は寮へ戻らなければならない時間だ。しかし私は、それを聞き届けるしかできず、一条くんが次の言葉を紡ぐのをただ待っている。着任してからずっと使い続けている擦り切れた聖書の上に置いた手が、じわじわと湿り気を帯び始めていた。
 一条くんはその瞳の奥に何を描いているのか――想像はつく。だからなおのこと、人の笑みにはこうも昏い雰囲気を纏わせることができるのかと恐ろしくなる。

「ずっと一緒に暮らすことを夢見ていた。たった一人の、僕の兄さんなんだよ」

 一条くんのご両親は、二人がまだ幼い頃に事故で亡くなったとのことだ。それ以来親戚の家で世話になっていたものの折り合いが悪く、兄弟そろって寮生活に身を置くことになったのだ。
 二人の仲の良さは学年を超えて有名だ。経歴が特殊ということもあるものの、聡明な兄と天真爛漫な弟の存在は校内でも際立っていた。中庭で二人が談笑しているのを私も見たことがある。陽の光を浴びて微笑みあう二人は、切り取って額縁に飾ればたちまち名画だろう。

「でも、兄さんはそうじゃなかったみたい」

 朱の差す唇を震わせる。紅顔はたちまち青ざめていき、行儀の悪いことなど無視して、長椅子の上で膝を抱えた。

「兄さんは笑っていた。笑って、『どうかな。俺も燿(ひかる)も、いつかは誰かと結婚するよ』って…」

 目の光に翳りが差す。弾んで転がる声が地に押さえられた低さだ。堕落した天使の顔から人間らしい感情は消え失せ、噛みしめすぎた唇は白かった。
 二の腕をぎゅうと握る指先さえも力を籠めすぎているせいで白く、純白とは程遠くとも、あらゆる感情が混ざった果てはユトリロの絵画に倣って白く見えるものだ。そこにあるのは、凶暴なまでに洗練された激情。

「その日の夜は眠れなかった。兄さんが僕を差し置いて結婚? 信じられない、どうして? そんなことあり得る? たった一人の兄弟なんだよ…泣いて泣いて、次の日学校休んじゃった」

 ようやく顔をあげて笑みを作って見せるものの、私はその様を天使と思えず、底知れなさにただ、口の中が渇いて粘ってきているのを感じた。

「ねぇ、先生。知っているでしょう、兄弟や親子が結婚できないのは血が繋がっているからなんです。血、とは何でしょうか」

 なじるような口調は一触即発で、ただ否定する言葉は彼にとってはまるで無意味なことはとうに察しがついていた。
 一条くんは青く透けた血管の走る腕を白魚の指でなぞり、片頬を吊り上げて自嘲する。傷跡や黒子など何一つない肌に、何の価値もないと嗤う。

「僕の身体には兄さんと同じ血が通っている。兄さんは世界で一番の存在だけれど、ずっと傍にいられないなら、そんなの意味がない…」

 制服のポケットに手を差し込む――光に反射する銀色のものを見た瞬間、私はほぼ反射で動き出し、一条くんの手を押さえた。
 聖書が床に落ちて響く派手な音がする。そのすぐあとを追うように、一条くんの手からカッターが離れてカツンと床に落ちていった。

「…馬鹿な真似はやめなさい」

 跳ねる心臓にようやくそれだけを絞り出すと、一条くんは声をあげて笑った。下卑た調子に耳を塞ぎたくなる。私の手を乱暴に振り払って身体を押しカッターを拾いしまうその様子に、自分が何を見ているのか信じられなかった。
 私の今まで見ていた一条くんとは、一体誰のことだったのだろう?

「安心して、傷なんて作ったら兄さんが悲しむから。これはお守り。いつ自分の身体から血を流してもいいようにね」

 平然と恐ろしいことを言い放ち、一条くんは椅子から立ち上がった。後を追おうとすると、一条くんは立ち止まり振り返った。その顔は逆光で見えにくい。しかし、わずかな光でぎらつく白目が私を捉えると、身体は凍り付き動けなくなる。
 彼は目を伏せ、胸の前で手を組む。祈る姿は礼拝中と変わらず、真っ直ぐに伸びた背すじと、兄と分け合った気立ての美しさが合わさると、聖性すら感じた。

「神さま、どうか秘密にしてください。僕は、」

 兄を希うやわらかな笑みに、光のヴェールが降り注ぐ。

「兄さんとずっと傍にいたい、…死ぬまで。そのことを、――兄さんが一生知りませんように」

 祈りを終えると、正気を取り戻した彼の頬には血色は戻り、目にもいつもの綺麗な光が宿っていた。何と声をかけたらいいか全くわからず、そのまま突っ立っていると、一条くんはお辞儀をした。

「先生、聞いてくれてどうもありがとうございました」

 こうして天使に還った彼は、弾んだ足取りで教会を出て行った。背中に羽根などなく、その場には一人の少年の激情の名残だけが強烈に残り、脱力した私はそのままふらふらと椅子に腰かける。

 昼休み、中庭のベンチで彼の兄が珍しく座りながら寝ていた。期末試験も近く、根を詰めていたのだろうか。開いた教科書を腿に載せて船を漕いでいた。
 そろそろ休憩もあける頃だ、疲れているはずの彼に声をかけるのはやや心苦しく、しかし起こそうと近づこうとしたら、一条くんが兄の側に寄ったのだ。
 代わりに起こしてくれるのだろう、そう安堵して事の顛末を見守り――私が見たのは、緩んだ頬に唇を落とす、天使であるはずの姿だった。

 罪を垣間見た私に、彼の恋慕を裁くことなどできようか。あの瞬間の絵が瞼に焼きついて離れてくれない。地獄に身を堕とす覚悟に私はただ、立ち尽くす。それこそ、救いを求める祈りのような胸の内で。

《了》