手折れ花に陽射しを

「ねぇ、熱中症になっちゃうよ」

 ふいに世界が暗くなり、こんなうだる快晴の日に雲でもかかったのかと思って顔をあげると、雲ではなく間宮がニコニコ笑ってそこにいた。どうやら日陰代わりにノートをかざしてくれたらしい。驚いて俺も立ち上がり、とりあえず親切で差し出してくれたらしいノートをどける。

「…間宮か。どうしてここに?」
「僕は夏期講習。学校のも受けてるから」
「あぁ…」

 納得してまたしゃがむと、間宮もそれに合わせて俺の隣に座った。カバンを椅子にして、優等生にしてはずいぶんお行儀が良くない。

「三木くんはどうして学校に?」
「え? あ、俺は…見ての通り園芸部だよ。今日当番でさ」

 驚いて凝視していると、間宮はそんなこと意にも介さず質問を寄越してくるから逆に俺が戸惑うはめになった。「そうなんだ」と笑みを崩すことなく、俺がさっきまでいじっていた花壇に視線を落とした。
 そこから二の句が継げられることはない。俺の頭にはハテナばかり浮かぶ。行きたい奴だけが申し込む、教師主催の学校に夏期講習に間宮が出てるのまでは分かったけど、そこからどうしてグラウンド端の花壇まで来るのか。
 そもそも俺と間宮は同じクラスで名前順が前後という以外に共通点はまるでなく、名前順に座席が決められていた四月以来ろくに話した覚えもない。

「間宮、帰んねぇの?」
「少し休んだら帰るよ」
「休んだら、って…ここにいたら本当に熱中症になるぞ」
「大丈夫、お茶も持ってるし」

 夏休みのど真ん中である真夏日に加えて、なんだか腹が立ってくるほど真っ青な晴天だ。水をいくら飲めど汗はあふれて、着てきたTシャツの大部分は濡れて色が変わっている。正直脱いで絞りたいくらいだった。
 対して間宮は、こんなクソ暑い日だというのに高校規定のシャツを、襟から袖口もきちんとボタンを閉めて着ている。見ているだけで暑そうなのに、本人は不思議と汗ひと粒も浮かんでいない。さっきまでクーラーのガンガンに効いた教室にいたからだろうか。

「しかし秀才クンはすごいな。学校のも、ってことは予備校も行ってるんだろ」
「…まぁねぇ。でも三木くんも大概だよ」
「は?」
「こんな暑い日に花壇のお手入れなんて、すごいよぉ」
「なっ…俺は当番なだけだってのっ」

 やや悪態づいてみせるのに、間宮は凪いだままだ。それどころかのんびりした口調でストレートに褒め返してくるときた。いや、ストレートすぎて嫌味を返されただけなのか微妙に判別しにくい。
 相手にするだけこっちの分が悪くなる気がして、俺はもう喋らず土いじりを再開する。顧問が知り合いから新しい花をもらったまではいいものの、それを花壇に植える作業を俺に任せてさっさと夏期講習へ行ってしまった。本当は水やりをしたらすぐ帰る予定だったのに。呼んでもないゲストの間宮も来るし今日はいろいろ調子が良くない。
 アメリカンブルーとかいう名前の青い花を、根が切れないように慎重にポットから花壇へ移し替えて、土をかぶせていく。土は意外と重いからなかなか骨が折れる作業だ。

「キレイな花だね」
「あ?」
「僕、ここの花壇を見るの好きなんだ。秋は赤い花がよく咲いているよね」
「お前…よく見てんだな」

 花壇なんてそこにあってないようなものだ。風景にすっかり同化してしまって、果たして何人の生徒がここに植えられている花を把握しているのか。
 だから間宮がそこまで把握しているのは少し意外だった。というより、間宮が俺を園芸部と認識しているのも正直驚いた。学年イチの秀才と言われていて、あれだけ勉強に時間を割いておきながらも生徒会の活動もこなしている。漫画に出てきそうな、絵に描いた優等生そのものだ。もやしみたいに白くてひょろいから、体育だと存在感は一気に鳴りを潜める、というかたまに見学すらしているけれど。
 成績も口も悪い俺と間宮とでは住んでいる世界すらそもそも違う。話したことはほとんどないけれど、無意識にそう思っていた、こうやっていきなり隣に来るまでは。というかどうして来たんだ。

「いやぁ、今日は暑いねぇ」
「あたりめぇだろ、何言ってんだ」

 青空からやってくる容赦ない熱線にさすがに懲りたのか、袖口のボタンを外して腕をまくる。鍛えているつもりのない俺の腕と比べてもずっと細く、焼けた様子もなく真っ白だ。ずっと家で勉強していたらおのずとこうなるのだろうか。

「僕の家にもね、花が活けてあるんだ」
「……は?」

 何の前触れもなく自分の調子で話し始める間宮に面食らう。周囲からまず悪い話を聞かないから、勝手に品行方正で人気者のイメージを持っていたけど違うのか?
 間宮の視線は俺が植えたばかりで少しへたっているアメリカンブルーに注がれる。

「家政婦さんが定期的に入れ替えてくれるんだ」
「かせいふ」
「うん。僕が生まれたときからいるんだ。佐藤さんっていう優しいおばさまだよ」
「へ、へぇ。ドラマ以外にいるんだな、そーいう人…」

 別の世界から来たと思ったら別の世界の単語を出してきていよいよぎょっと身を引いたが間宮は気にしていない。ただ、心なしか口調だけは沈んでいっている気がして姿勢を戻す。
 間宮は俺には顔を向けず、花壇の花々を凝視している。オレンジ、青、黄色。瞳にそれらの色は映っていない。

「いつもキレイな状態でね。これはユリですよ、アネモネですよ、って教えてくれるんだ。でも、ある日ね…」

 のんびり喋っている間宮の声がどんどん小さく、天気に似つかわしくない陰を帯びていく。

「枯れたところを見たことがないなって思って。母さんに聞いてみたんだ、飾っていた花はどうするの、って。そうしたら」

 風が一瞬だけ強く吹いて、髪を押さえる。間宮も同じように額を押さえた――そのとき。

 空いた袖口から、握っただけで折れそうな手首を横断する、二本の真っ直ぐな線が見えた。気づいて、心臓が縮む。まだまだ治りかけなのだろうか、薄く鮮やかなピンク色だ。その下にも、肌の色とほとんど同化している線の痕がある。間宮は気にせず花を見ているけれど、俺はそっちから視線を逸らせなくて、ただ土を触ったまま言葉を失う。

「枯れる前に捨てるんだって…いい状態だけを見てキレイだって言ってたの、なんか嫌だったな…」

 最後はほとんど独り言のようで、かすれた声で間宮は呟いた。確かに俺と間宮は接点はまずない。だからって――そんな顔、いつしたよ、教室の中で。
 その傷、何なんだよ。何が言いたいんだよ、お前。そんな話俺に話してどうするんだよ。言いたいことは山のようにあるはずなのに、どれも適切だと到底思えず、間宮を見つめる。
 俺の視線にようやく気づいた間宮は、さっきまでの薄暗さなんてなかったかのようにニコッと笑い返した。手首の傷も見られているのに気づいているはずなのに、隠すような真似もしない。

「だからさっき夏期講習中、窓からちらちら三木くんが見えてつい見ちゃった。こうやって元気がなくても大事にしてあげるの、良いなと思って」
「はぁ!? 違うっ」

 思わず大きな声を出すと、間宮は目を丸くして俺を見つめ返した。ハッとして、取り繕うべく言葉を探す。

「え、いや、まぁ元気はねぇけど、今週は雨の降る予定はまずないから、水やって陽射しの下に置いておけばフツーに咲くぞっ」

 自分でも何に対しての反論かわけが分からず、「やっぱなんでもねぇ」と手を振ろうとしたら、間宮が笑い声をあげた。本当に、楽しそうに。俺の言ったことがそんなおかしかったのだろうか。

「そっかぁ! なら、良かったぁ。…うん、よかった」
「…? あぁ、そうか…?」

 何がどう良かったか全く理解しきれないが、間宮の中では腑に落ちたらしい。立ち上がり、カバンを持って俺を振り返る。その表情は、快晴のごときすがすがしさ。本人の前で首を傾げるが、間宮はやはりどこ吹く風の態度だ。

「僕、もう行かなきゃ。今日は予備校なんだよね」
「あ、おい!」

 言いたいことだけ言いまくってその場を離れようとした間宮の手首を掴む。想像以上の細さよりも、傷のあった方を掴んでしまい危機感を覚えてすぐに離す。

「…どうしたの?」

 袖口のボタンを留めながら間宮は尋ねる。お前の方がどうしたんだよ! ――そう叫びたかったけれど、さっきの間宮の話がいやでも頭を反芻する。

『いい状態だけを見てキレイだって言ってたの、なんか嫌だったな』

 俺ももし、間宮に対してまさしく品行方正で人気のある「いい」優等生のイメージを勝手に築いていると間宮が知ったら、こいつの考えていることは分からないけれど、…多分、ショックを受けるだろう。
 それかもう自分がそう思われているのを分かり切ったうえで、ニコニコと人の好い笑みで受け止めるのだろうか。どちらにせよ、そんな間宮を見たら、こいつよりも俺自身にムカつくことには変わらない。

「園芸部なんてほとんど人いねぇし、俺夏休み中は割とガッコー来るよ。夏期講習ついでに休憩しに来れば」
「…本当!? 三木くん、ありがとう!」

 手を握り返されて今度こそぎょっとするが、間宮の目にようやく光が入ったのに気づいて、なんだかホッとする。空は相変わらず真っ青で、今日はムカつくほど暑い。だから、しばらくはきっと、そんな悪くない日が続くだろう。

《了》