春を呼ぶ君を飾る音

 誰もいない部屋に帰ってきたときの静かさのことなら昔から知っている。マンションの鍵を回したときの響きで、なんとなくだけど「ここには誰もいないんだな」という想像がついた。

 小学生の頃は宿題をそこそこに友達とサッカーしたり、友達の家へ行ってゲームをしたり、中学にあがってからもそのあたりは変わらなかったけれど、誰かを家に招くことはほとんどなかった。親がほとんど不在の状況で、「好き放題遊べる」って思ってもいいはずなのに、「じゃあ俺んち来いよ」の一言が出てくるまでずいぶん時間がかかり、その間に遊ぶ場所は公園、誰かの家、ゲームセンターなど決まっていった。
 今思うと、誰かが入ってきて賑やかになるのが嫌だったのかもしれない。賑やかになっても、そのあとみんなが帰ってしまえばまた静かになるから。もともと静かなのと、うるさかったのが静まる状況では、耳に残るものが全然違う。友達といたときは気にも留めなかった心臓の脈打つ音、空気の流れる音なんかが妙に耳障りなのが嫌だった。
 父さんはいつでも友達が来てもいいように、仕事帰りにコンビニやスーパーに寄ってお菓子をストックしてくれたし、誕生日やクリスマスにはゲームも買ってくれたけれど、俺が自分の家に友達をあまり招くことがないのを知ると、お菓子は休日に一緒に食べるようになった。俺はそれでも全然良かったし、自分の父親なのに、平日は帰りも遅い父さんを家で独占できるのは無性に嬉しくて、その時間がすごく好きだった。

 高校にあがってしばらくしてもそんな状況が続いて、それがずっと変わらないのだろうと思っていた。父さんとずっと、二人で暮らしていくのだと。
 でも俺は、高校生を続けながらアイドルになる道を選び、父さんはそれを無理に引き留めるような真似はせず、転勤のために部屋を出ていった。父さんは「いつでも帰って来れるように」なんて言って、家具の一部は送らず安いものをわざわざ買って、家にはほとんどのものを置きっぱなしにして転勤先へ行ったから、今でも部屋中に父さんの気配がある。
 それでも、父さんが出ていって初めて自宅に帰ってきたときに感じたのは、「静かだな」ということだ。長年染みついた二人分――母さんも入れると三人分の声は、なかなか消えないらしい。それまで父さんが出張でいない日は何回もあったし、朝から晩まで一人なんてことはざらにあったけれど、それでも一日二日で帰ってきていたから。
 誰もいなくなった時、初めて家にいたくないと思った。「ただいま」と、音を取り戻してくれる声が聞こえない。ゲームやテレビを点けても、耳を滑って通り抜けていく。一人分の家事はいともたやすく済んでしまう。
 それを俺は、「暇」だと認識していた。やることがないというのはこうも隙間が多く退屈なのだと。ただ、俺はアイドルとしてスカウトされた身だ。手持ち無沙汰の状態は黒井のおっさんに叱責されるかもしれない。それもどうかと思って、暇という名の静かさをレッスンで潰すことにした。
 スマホにイヤホンを差し仮歌を聞く。姿見の前で振り付けを確認する。不思議だ。こんなに動いていてもなお、どこか無音を保っている部屋は、一人で住むにはやっぱり広いらしい。やたらと空いたスペースが目につくせいで、静けさを塗りつぶすのも難しかった。

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 『冬馬くんお誕生日おめでとう』と書かれたメッセージカードや、派手な模様の包装紙に包まれたプレゼントが床や机に散らばっている。
「片付けようか?」
 北斗が笑いながら声を掛けるのを、首を横に振って断る。こうなるのはなんとなく想像ついていたし、一つずつ確認したかったから自分で片付けることにした。
「冬馬くん、ごちそうさま」
「翔太…お前本当に食いに来ただけかよっ」
「え~でもプレゼントも持ってきたじゃん! ね?」
 お腹をさすって満足げな翔太があまりにも朗らかに笑うからなんだか脱力する。翔太は今年も北斗と一緒に買った誕生日ケーキの多くを平らげ、作り置きしておいたカレーも出してみたらおかわりまでしてのけた。俺と北斗は見ているだけで胸焼けするものだから、おとなしくケーキのみに留めておいたけれど。
 プロデューサーや他の仲間たちからのプレゼントはとても抱えきれず、さらに明日にはファンからの贈り物も受け取る予定だ。部屋のどこを片付けよう。思い切って断捨離をしようにも、なかなか捨てきれない物も多い。このままでは、一人住むのにも窮屈になりそうなのに。
「それじゃあ、俺たち帰るから」
「おう、今日は本当にありがとな」
「冬馬くん、ちゃんと夜更かししないで寝るんだよ」
「んなこと言われなくて分かってるよ!」
 クスクス笑い合う北斗と翔太を玄関で見送る。ドアの閉じ際、声を掛けられた。
「冬馬」
「冬馬くん」
 お誕生日おめでとう。
 二人の声と、視線が重なって俺を差す。咄嗟に返事が出ず、ただ、笑って応えた。
「ありがとな」
 お礼の言い終わるタイミングでドアがバタンと閉じられた。二人にちゃんと、届いただろうか。廊下の足音がどんどん遠ざかり、やがて聞こえなくなるまで、俺はその場に立ったままだった。
 リビングに戻ると、さっきまで食べていたものの微かな匂いがし、次には積み重ねられたプレゼントが目に入った。いつ開けよう、すぐにでも見てみたいような、お楽しみに明日までとっておきたいような。時計を見ると、あと数時間で日付も変わることに、もうこんな時間なのかと少し驚いた。明日も朝から仕事だし、開封はそのあとにしよう。
 食器は北斗と、誕生日だからだろうか、珍しく翔太もあらかた片付けてくれた。あとは風呂に入って、今日あったことをちょっとずつ思い返しながら寝るだけだ。でも、なんだろう――すぐに寝るには惜しい気がした。いつでも寝られるくらい、部屋は静かなのに。

 どうしてだろう。いつからだろう。
 北斗や翔太のように、誰かが部屋にあがるのをあまり苦に感じなくなった。あれだけ喋り倒したあとに帰られると、祭りのあととも言えるほどの虚脱感があるのに、それも嫌じゃない。あとは、部屋中に散らばる余韻を朝日がさらっていくのを待つだけの、全てをやり尽くした気分だった。
 ひと息ついて、通知ランプの点滅する携帯を開く。たくさんのメッセージはそこにもあった。もちろん、父さんのも。それは多くの言葉に埋もれることなく俺の目に届く。
 見つけた瞬間には、勝手に指先が動いて父さんの連絡先を開いて、通話ボタンを押そうとしていた。誕生日は仕事が被っていることがほとんどだ。いつもは合間をぬって一言お礼を返すだけだけど、今日はなんとなく、例え二、三言だけでも声を聞いて電話がしたかった。あまりにたくさんのものを貰い受けたから、誰かに分けないと持て余して、息が詰まる気さえする。
 父さんのことだ、俺から電話が来たら何時だろうか否が応でも応えるに違いない。繋がったらまず、何て言おう。父さん、この満ち足りた気持ちが聞こえるか?

《了》