できるだけ、にっこり笑って

 思い通りにならない手足も。
 ずっと空きっぱなしのお腹も。
 なかなか覚えられないクラスメイトも。
 本当はどれも、ちょっとだけつらいんだ。

 バキッと大きな音が耳の近くで鳴って目が覚めた。起きると目の前は暗闇で、まだ夜中なのがすぐ分かった。時間を見る気にもなれない。嫌になる。冬馬くんが大声で僕を起こそうとしてもちっとも目は覚めないのに(僕はいつも寝ているからその様子は分からない)。
 朝が来るまであと何時間寝られるだろう。もう一度目を閉じるよりも先に、脚から痛みがのぼってくる方が先だった。暗い中で思い切り顔をしかめる。寝返りをうつと、春も始まったばかりだというのにシーツが寝汗でびっしょり濡れていた。
 こうなると最悪で、できることは「痛くない」と頭の中で唱えながらいつの間にか寝に入るのを待つくらいだ。そういう日は寝起きがいつにも増して悪いからお母さんも呆れてしまう。今から明日について憂鬱になった。
 さっきの音は何だったのだろう。気のせいだろうか、それとも僕の中から聞こえたものだろうか。想像してゾッとする。夜のうちにいつの間にか変わっていく僕の身体を、最近じゃ
なんだか自分のものと思えなくて気持ち悪かった。痛みとイライラを感じる僕の気持ちを無視して変わろうとするから。
 カチカチと壁時計の音がよく聞こえる。今、何時なのだろう。枕元に置いた携帯が気になるけれど、寝る直前にチカチカした画面を見るのはよくないってお母さんや姉さんに言われている。あまり目の前の光景は変わらないけど、意識して目を閉じてゆっくり呼吸すると少しだけ脚の痛みは楽になった。
 さっきお風呂に入ったときは、今日はよく寝られそうと思ったのにな。筋肉痛にするように保冷剤とかで冷やすともっと痛くなるから、ダンスレッスンに励んだ日は筋肉と骨の痛みのダブルパンチで苦しむはめになった。僕はアクロバット担当だし、なおさらだけど控えるなんて選択肢は今まで浮かんだことはない。

『へぇ、翔太にも寝られない日なんてあるんだ。でも俺も成長痛はひどかったよ、すごく痛かったの、まだ覚えてる。だから翔太もきっと背がぐんと伸びるんじゃないかな』
 北斗くんに思い切って最近たまに寝られないと話したら、笑ってそう返された。北斗くんは世の中の男の人と比べても背が高い方だけれど、僕自身がこうなる姿はいまいちうまく想像できない。冬馬くんを見下ろすのは楽しそう。でも今現在は冬馬くん相手にもちょっと見上げているから、背が180もある僕はますます現実から離れた妄想になっていく。
 痛いときどうしてた? 現在進行形の問題を深刻なものと捉えられないようにそっと尋ねたら、『寝られるまでクラシックを聴いたり、明かりを少し点けてピアノの譜読みをしてたよ』と返された。それ以上は北斗くんがとっても優しい目をして僕を見ていたから聞けなかった。もっと相談したら必ず真剣に答えてくれるだろうけど、くよくよしているとは思われたくない。
 だけど、普段からあんなに余裕があってスマートな北斗くんにも成長痛というものがあったのかという事実がちょっとシュールで、なんというか信じられなかった。過去には今よりずっと背が低くて…なんて言われても、写真でも見せられない限りあまりピンと来ない。
 北斗くんはクラシックや譜読みをしていたと言っていた。きっとそのときの北斗くんが好きなものでリラックスしていたのだろう。確かにクラシックは何を聴いても眠くなる、試してみよう。チカチカした画面を見るのは良くないと思いつつ、動画サイトを開こうと枕元の携帯を手探りで探した瞬間、お腹がぐぅと派手に鳴った。
「うぅ…」
 思わずうめく。お腹が空いているのを一旦自覚するともうダメだ。身体の充電が切れて何も考えられない。そのくせ脚や腕はずっとズキズキ痛くて全然眠くないから最悪だ。シーツを力任せに握りしめて考える。
 何か食べたい。二秒も迷わなかった。

 階段を忍び足でそっと降りてリビングへ向かう。家はどの部屋も真っ暗で、姉さんが深夜のバラエティを見ていないってことはもう一時か二時くらいかもしれない。暗闇に慣れた目でキッチンに向かい、手探りで電気を点ける。
 インスタント食品をしまっている棚を見ると、カップラーメンが一つだけ残っていた。スープや春雨とか全然お腹にたまらないものばかりがある中で、カップラーメンはかなり浮いている。お母さんや姉さんは「むくんじゃう」と言ってこういうのを全然食べない。今食べたら間違いなくバレるけど、いつ買ったかもよく分からないものを処分したことで見逃してもらおう。そして今後も買ってもらうようお願いしよう。
 しょうゆ味と書かれたそれのビニールをペリペリ剥がして、電気ケトルに水を入れてお湯を沸かす。お湯を入れて五分と書かれているのに気づいてちょっとガッカリする。三分じゃないんだ、今すぐにでも食べたいのに。あとできるだけこの場から早く離れてベッドに戻りたいのに。
 でも文句なんて言えない。数時間前に夜ご飯を食べたと思えないほどお腹が空いてぐうぐう鳴っている。脚も痛いままだ。きちんと説明通りにかやくを入れ、お湯が沸くのを待つ。夜遅い時間だと、待つというのが苦しい気持ちになる。
 いけないことをしているという自覚は正直あった。こんな夜遅くに何か食べることや、夜ふかし自体にも。そう意識すると耳が冴えわたってきて、お腹の動きや電気ケトルの動き、時計の針が動く音なんかもいやによく聞こえた。

 ごぽごぽ。
 お湯はほどなく沸いたけれど、あと五分はかかるんだ。お湯を注いで、液体スープの入った袋をフタの重石にする。お湯を注いだ瞬間、ほんの少し油っぽい匂いが立ち上がってお腹が素直に反応してぐうぐう鳴った。これじゃあお腹の音で誰か起きちゃいそう…と真剣に心配しかけて、そろそろちょっと冷静になる。冷蔵庫にくっついていたキッチンタイマーをセットして少しだけ息を吐くと、心臓の音もあまり意識しなくて済んだ。
 冷たい床に座って、時間を数える、1、2、3…すぐに飽きて、痛いままの脚をさすった。さすった瞬間は楽なんだけど、すぐ痛みは戻ってくる。この痛みの中で、僕の骨は伸びようとしているらしい。母さんは病院に行く? と聞いてくれたけれど、それは大げさな気がして断った。たいしたことない、と思おうとしても、こうして眠れない日があるのが事実だったけれど。
 何か他のことを考えよう。手の中にしまったキッチンタイマーをもてあそびながら、明日のスケジュールを思い出す。明日は朝からダンスレッスンで、そのあとボイトレ。新曲のリリースイベントが近いから諸々の調整は大詰めだ。身体が痛くても仕事は待ってくれない。特に痛いのは夜中だけど、日中も時々。コンディションを当日までに整えなきゃ。
 それから…と思い返していって、自分で学校の予定を全然思い出していないことに気づく。最後に行ったのは二週間くらい前。プリントやら課題やらをまとめて引き取ったけど、全然手を付けていない。そして、その日誰と話したかすらもいまいちよく覚えていなかった。クラス替えからしばらく経ったけれど、名前と顔なんて一致しやしない。

 まぁ、どうだっていいけど。
 手の中のタイマーを見ると、残り数十秒のところだった。止めて冷蔵庫にぺたりと貼り付ける。フタを剥がして、熱で脂がドロドロに溶けた液体スープを入れたらテキトーに箸でグルグル混ぜる。最近食べたラーメンは円城寺さんのとこの大盛り味玉付きだ。お店のラーメンばかり食べてすっかりグルメに、なんてことはなくて、カップラーメンの匂いだけでもよだれが出てきた。
 息をかけて少し冷ましてから、ひと口すする。しょうゆのスープはお腹の中に染みてくみたいに熱い。噛んでいる間に箸で麺を掴む。そういえば円城寺さんのお店でも冬馬くんにツッコまれたけど、僕ひと口がかなり大きいらしい。このカップラーメンもあと三、四口で食べ終えられちゃいそうだ。でもそうなったのも多分最近のことだ。ここ最近はずっと、いくら食べてもお腹が空く。というかいつも空いている。こんな変な時間にだって。
 食べながら、キッチンの明かりだけで見える範囲のところを見る。この時間には冬馬くんや北斗くん、いつも忙しそうなプロデューサーさんだって寝ているだろう。世界中のみんながおとなしく家で寝ているみたいな夜。僕だけが、身体が痛くて眠れない。スープに浮かぶ僕の顔は暗くてよく見えなかった。箸を入れて、残り少ない麺を掴む。
「あれ」
 思わず声に出した。もうなくなったの? 箸で暗いスープの中を探っても、あとは短く切れた麺と、こまごましたかやくしかなかった。
 嘘、これじゃあ待っていたのと同じくらいの時間で食べ終えたことになる。まだまだ腹三分目ってくらいだ。なんだか拍子抜けだ。それでも、お腹が空いたときの息苦しさはずいぶん楽になった。それに、食べている間は脚が痛いのを意識しなくても済んだから。血行が良くなったからか、ほんの少しやわらいだ脚をもう一度さすった。
 なんだかクセになるしょっぱさのスープをもう少し飲みたかったけれど、姉さんたちの言う通り本当に身体に良くなさそうだから、もったいないけど流しに捨てる。カップを軽く洗ってゴミ箱へ。箸くらいもさすがに洗った。キッチンの電気はそのままに、それを頼りに洗面台へ向かう。
 芸能人は歯が命(らしい)。歯も軽く磨いておこう。歯ブラシに歯磨き粉を付けて、いつもよりだいぶテキトーに口の中をごしごし磨くと、少し気分はスッキリした。鏡の中の自分がどんな顔をしているかは、見ないように少し俯く。見なくたってだいたい想像できる。
 口をゆすいで吐き出すと、これだけ動いているのにいきなり眠気が襲ってきた。お腹にものが入ったからかな。だとしたら僕の身体はちょっと単純すぎる。骨を伸ばすためにずっとお腹が空いていて、食べたらお腹いっぱいだから寝る。毎日こんなにカンタンだったらどれだけいいだろう。

 ゆっくり、音をなるべくたてずに階段をのぼる。目を閉じるだけで一秒足らずで寝られそうだ。自分の息とかすかな足音しか聞こえない。世界で自分だけが、起きている夜。
 ふらふらとままならない足取りでベッドに倒れて、頭から布団をかぶった。夜ふかしなんてするものじゃない。なんだか今更すごく後悔してきた。めちゃくちゃな食生活に睡眠で、冬馬くんあたりに叱られたって自業自得だ。そうならないように、少しでも長く寝よう。今は、それしかできないから。
 こういうことって、他の人も体験していることなのかな。冬馬くんも三年前は僕と同じだったのかな。僕が冬馬くんと北斗くんと初めて会ったとき、二人は今と同然の姿だったから、もうとっくの前に成長痛なんてクリアしていて、時々それが、無性に悔しくなる。周りの大人に相談して、「そんなこともあった」なんて言われたって何にも説得力がない。今、今が一番、苦しい。早く終わってほしいのに。この先の僕がどんな姿になるかも分からないまま、骨は伸びようと音をたててゆく。
 顔もろくに覚えていないクラスメイトも、今僕と同じように身体が痛いと感じている人もいるのかな。同い年なのに、僕とは全然違う生活を過ごす人たち。分かりっこない。向こうだって僕がどんな毎日を送っているか知らないんだ。

 ギシギシ。歌やダンスに疲れた身体が軋んで止まらない。
 僕以外の誰にもこの音は聞こえない。どうして? こんなにうるさいのに。
 痛い痛いとイライラしているとき、僕はいつもひとりだった。
 こんな苦しみ、本当にいつか終わるのかな。
 優しい目で話せるくらい、受け止められるのだろうか。
 本当に?

 身体から内臓がなくなっちゃったみたい。嘘みたいに軽い。腕も脚も痛くない。今ならどこへだって飛べそうだ。思わず背中を触るけれど、羽根なんてあるはずもなかった。
 ふわふわとベッドの上を歩いている心地で、明るくて真っ白な空間を自由に行き来する。いいな、いつもこんな感じで動けたら、どんなダンスもアクロバットも気ままにやり放題だ。
 ふわふわ跳ねてみる。その勢いのまま、バク宙をバシッときめる。今まで覚えてきた振り付けを踊ってみる。ここがステージじゃないのがもったいない。どんなパフォーマンスもバッチリと思えるほどうまくできて、みんなを喜ばせることができるのに。ひとりでやるっていうのは自主練みたいで面白くはない。
『うまいのぉ』
 感心したようにそうこぼす声がした。心臓が縮み上がって振り返る。
『なんだ、大吾さんか』
 そこにはニコニコと笑ってとっても嬉しそうな大吾さんがいた。
『翔太はさすがじゃ』
 大吾さんはそんなこと全く気にも留めず、ぱちぱちとけっこう全力で拍手してくれる。そうか、大吾さんだけは見ていてくれたのか。その笑顔につられて笑うと、不思議なくらいホッと安心した。
『大吾さんはどうしてここにいるの?』
『そりゃあもちろん、踊ろうと思ってな!』
 そう言って、F-LAGSの曲で踊っている振り付けを見せた。同じ事務所だからか、振り付けを見ているだけでもメロディが頭に浮かんでくる。大吾さんがいつもどんな風に踊っているかも。
 曲の間奏、クライマックスにあたる部分で大吾さんはバク宙をしてみせたから僕は思わず声を出す。
『あー! それ僕の専売特許だから! 今までそんなフリしてなかったじゃん!』
『なにおぅ! ワシだって315プロに入って練習したんじゃ!』
『え~でも僕の方がうまいかも?』
 もう一度やってみせると、大吾さんが悔しそうな顔をする。そのまま今度は、事務所のみんなで出した曲を思い描きながら振りにつなげる。すると大吾さんは動きを見て、すぐに僕に合流した。僕たちは背格好がだいたい近いから、同時に動きが決まるとかなり気持ちいい反面、やっぱり差をつけたくてアドリブも入れるようにしてみる。
『それええのぉ!』
『でしょ! 大吾さんもなかなかやるじゃん!』
 息を切らしながら二人で踊っていると、お客さんがいないせいか、相手の動きがステージよりもずっとよく見えた。
 大吾さんはアイドルになってからダンスを始めたと誰かから聞いたけれど、そうとは思えないくらいキレもあるし、かといってバキバキ派手に踊るだけじゃなくて、止めるところはピタッとジャストで止めるから、動と静の差には目を見張る。それでとっても楽しそうに笑うから、なんだかずっと昔からアイドルをやっていたみたいな謎の説得力があった。
『ところで大吾さん、なんで、こんなとこに、いるの?』
 さすがに少し疲れてダンスを止めて、顎を滴る汗をぬぐいながら息を切らして尋ねる。僕のほんの少しあとに同じく動きをやめた大吾さんは肩で息をしながらごくりと喉を動かして、それからまた、楽し気に満面の笑みを浮かべる。
『そりゃあ翔太に会いたかったからじゃ』
『なにそれ、変なの』
『翔太なら、一緒に踊ってくれそうじゃと思って』
 一緒に。
 その言葉を聞いて、どう返していいのか分からなくて思わずうつむいた。疲れとは別のところで、胸が苦しい。どうして、この言葉でこんなに揺さぶられちゃってるんだろう。
 確かにこんな風に誰かと一緒に、お仕事とか抜きにしてダンスをするの、もしかして初めてかもしれなかった。おんなじくらい踊って、自分が差をつけようとすれば相手も追いついてくるから、こっちも追いかけたくなる。踊っている間、考えていたことといえば「楽しい」「負けちゃいられない」の二つくらいで、あとは、同じ場所に立って大吾さんの踊っている姿だけを見ていた。
『…大吾さんは楽しかった?』
『当たり前じゃ!』
 肩をバシバシ叩かれて、痛みに顔をしかめると、大吾さんの姿が一瞬にじむ。あぁ、いやだ。こんなに楽しくてたまらない時間なのに、なんだか気づきたくないことの存在を察してしまい、不安から口をついて言葉が出る。
『こんなに久々に踊ったかも。最近、脚痛いから』
『へ? なんじゃ、…もしかして今何か病気か?』
『違うよ、夜だけ。でも昼も、100パーセント踊れてるって気になれない』
 早口で言ってから急に恥ずかしくなって思わずそっぽを向く。こんな話、冬馬くんや北斗くんにもしたことない。言ってどうにかなる話じゃないのに。今のは忘れて、と言おうと思ったとき、大吾さんは頷いた。
『そうか。じつはワシも最近肘や脚が…たまにじゃけん心配しとらんが』
『えっそうなの?』
『先生に相談したら成長痛って教えてもらったぞ! ワシらどこまででっかくなるか競争じゃな』
 決して馬鹿にされているわけじゃないのは分かるけれど、あまりにあっけからんと言い放つものだから拍子抜けする。眠れないほどの悩みって、大吾さんに言わせればこんなふうに楽しめるもの? だけど、じわじわと「そうか、競争なんだ」と腑に落ちている僕に一番ビックリした。
 そんな単純に解決させていいのかな? でも大吾さんとなら――同い年で同じアイドルの大吾さんとなら、ダンスだけじゃなくて身長でも勝負できる。
『へぇ、競争ね。いいじゃん! 今は僕の方が大きいから勝ち逃げさせてもらおっかな』
『翔太、そうはいかん。将来はどうなるか分からんぞ!』
『将来…』
 いつかこの、誰にも分けられなかったしんどさも終わるときが来る。僕には周りの大人が痛みの時をどんなふうに過ごしてきたか分からないし、クラスメイトがどんな日常を過ごしているかも知らない。
 だけどこうやって相手がいれば、この痛みの分だけ骨がグンと伸びて大きくなれる自分は描ける気がした。冬馬くんや北斗くんと一緒に歌って踊って、――大吾さんとも、一緒に立つ日なんかが来るのかな。それはちょっと、期待してもいいな。
『そうしたらさ、また一緒に勝負しようよ』
『おう、約束じゃ』
『絶対だよ。――大吾くん』
 その呼び方は自然と口からこぼれて出た。大吾くん、はにっこり笑って「翔太」と僕の名を呼んだ。だけど、その声は僕に届かない。いい天気の日みたいに明るかった場所は少しずつ崩れていって、目の前にいる大吾くんをさらっていく。
『待って、』
 まだ話していないことがたくさんある。冬馬くんや北斗くんにも分からないんじゃないかと思って、心配されたくなくて、優しくされたくなくて、心のどこかで諦めてしまっていたことも。
 あたりはどんどん暗くなっていく。大吾くんが遠く見えなくなっていく。追いかけようとした脚は、思い出したみたいに痛んで重い。どうしよう、このままじゃ沈んじゃう。その前に大吾くんの姿を捉える。もうほとんど見えなかったけれど、いつもみたいにニコニコ全開で笑っているのだけは分かった。
『僕も――』
 暗い世界にどんどん呑みこまれていって、もう何も見えない。意識も暗くなっていく。このままじゃ、苦しい夜の中で見つけ出した大切なものも忘れちゃいそう。
 だけど、何にも抗えなくて、待って、目覚めてしまう――。

 薄明かりの中で眠る。
 浮上しかけた意識は、まだ眠っていたい気持ちにあっさり負けてどんどん意識の底へ沈んでいく。
 お母さんがキッチンで朝ごはんを作る音も、お姉さんの髪をセットするドライヤーの音も、何も聞こえない。つまりはまだ朝じゃない。まだ寝てたっていいわけだ。寝返りをうって、引き続き目を閉じる。
 ――夢? 覚えているのは白さと暗闇だけで、何も覚えていない。むにゃむにゃ何も機能していない意識で、もう忘れる直前の景色をぼんやり思い描いた。

 きっともうすぐ、今までと同じような朝が来る。今日も学校を休んで、イベントに向けてレッスン漬けの一日だ。夜には脚が痛んで、僕はそれにイライラする。だから、できることといえば一分でも長く眠るくらい。一日がやって来るのを、ただひたすら寝ながら待った。
 目が覚めたときには、きっといい将来が待っていると少しでも信じて、できるだけ、にっこり笑うことを自分に約束しながら。

《了》