同じ春を踏む

 俺は何度も考えたことがあった。茂庭さんがバレーに対して後悔がないのか。
 インターハイが終わると、言葉を発する間もないまま俺は主将になった。後ろから見ることに慣れてしまった2番は俺が纏うと、幼い子供が憧れて親のぶかぶかなスーツを着るような居づらい違和感を覚えてならなくて、最初は周りも同じことを思っていないかが正直少しだけ怖かった。だけど青根も小原、新しくスタメン入りした女川も黙って俺の背中を叩いたし、作並なんて三年生にすごく懐いていたのに、俺が2番を背負って間もなく俺のことを主将と見なして力強い目で指示を待つようになった。そんな中、俺だけがよろよろ歩いているわけにもいかない。気を引き締めれば2番の数字は背中にくっつくようにすぐ馴染んだ。本当に、思ったよりもあっけなく一瞬で。
 気を抜く暇なんてまばたき一回分もなかった。尊敬していた先輩の思いを背負っている、という誰かが言ったわけでもないプレッシャーが俺たちを駆り立てていたのは否めない。だけど不作だなんて、思ったことない。口には出さなくても誰もが思っていることを、あの人たちはちゃんと分かってるんだろうか。全てを引き継いでコートに立っているのに、それだけが心に引っかかっていて、まるで気づいたら制服についていたラーメンの染みみたいに俺の気をさわりと逆撫でする。

 練習をよく見に来るのが鎌先さんだ。就活大丈夫ですか、なんて冷かしても先輩として心配しているのが分かるからなかなか面倒くさい、俺自身が。笹谷さんと茂庭さんはあまり練習に来ない。笹谷さんは元から放任主義みたいなところはあるけれど、茂庭さんは本当に姿を見せない。少し前まで主将だからってほとんど一番乗りで体育館にいたのが嘘みたいだった。
 どうして来ないんですか、同じクラスなら引っ張ってきてもいいんじゃないですかと笹谷さんに一度だけ言ったことがある。笹谷さんはあまり拗ねんなよ俺と笑ったあと、くしゃりと顔を少ししかめるような笑みで、それだけお前たちを信じているんだよと小さな声で俺に教えてくれた。俺はあまり見たことない笹谷さんのその笑顔に何も言えないまま、だけど納得もできなかった。
 俺を、俺たちを信じているのは分かる。持っていたものを全部くれたのも、背中を押してコートに立たせたのも。分かる、分かるよ、でも理屈じゃない。俺は納得できていない。主将としての事務仕事を淡々とやっていると、ふとドア越しに聞こえた泣き声を思い出すことがある。俺たちの前ではそんなの微塵も見せなかったくせに、主将の茂庭さんは見えないところでいとも簡単に泣いた。俺たちを送り出すときは笑っていたくせに。だから俺は分からないんだ。俺たちの前でだって悔しがって、地団駄踏んで泣き崩れてもらった方がいっそマシだった。でも、その理由を本当は分かりたくないだけかもしれない。ただ言葉にはしたくないだけだ。

 春高は青城に敗れて終わった。新しいチームとして完成するにはまだまだ時間はかかりそうだ。負けたのは悔しいしムカつくくらい課題は多いけれど、発展する余地があるだけいいのかもしれない。のびしろしかねぇなと言い切った鎌先さんを思い出す。
 俺たちは思考を切り替えることが随分とうまくなった。県大会や地区大会もあるけれど、大きな目標は来年のインターハイと春高だ。手で掴めるだけ掴んだ時間を全部使い切るような勢いで練習しなきゃいけない。鉄壁を作るこの腕と手には、あの人たちがくれた時間もあるのだ。主将として気を引き締めなきゃ、負けていられない、と思うたびに茂庭さんも同じ気持ちだったのだろうかと考えた。
 春高が終わってから急に三年生の残滓が体育館からなくなってしまったような気がした。練習に打ち込めば打ち込むほど、誰ももう三年生に遊びに来てほしいとは言わなくなっていく。だって、俺たちの目の前には未来があるから。2番の数字は当然のように俺の背にぴたりとくっつく。季節が流れていく、というのを頭と身体で実感するのは初めてだった。いつの間にか名前も知らない花が咲いて、そこに葉がついてやがて枯れる。――時間の流れをこうも味わうはめになるだなんて。卒業が近づいている証拠だった。
 茂庭さんとは時々廊下ですれ違う。俺の顔を見ると眉尻の下がるふにゃりとした変わらない笑みで挨拶してくれる。部活の様子を尋ねて、俺が何と答えても最後は必ず笑顔で「頑張れよ」と激励するように腕を叩いた。そして去る後ろ姿に、今までこの人の背中に見てきた2番がほんの少しずつ思い出せなくなっているのに気がついた。

 このまま俺は、茂庭さんのことを懐かしいと思うようになってしまうのだろうか。腑に落ちない気持ちは強くなるばかりで、主将だった茂庭さんの姿は薄くなっていくのに、茂庭さんのドア越しの泣き声だけが耳を塞いでも消えてくれない。
 俺は知らなかったのに。記憶の中の茂庭さんは困っている表情か笑顔しか見せてくれないのに、泣き声だけが確かにあるなんて。泣いている顔が見えない。茂庭さん、茂庭さん――俺、大事なことまだ何も言っていない気がする。笑ってほしかった。笑って、その笑い声で泣き声を塗り潰してほしかった。だけどどうしてだろう、あの困り顔とそこまで変わらない笑みを思い出しても、俺自身がまだ納得する気がしないんだ。

「俺、茂庭さんのこと本当に尊敬してたんです」

 枝にまでずっしりと雪の積もる冬のいっとう寒い日、俺は茂庭さんに小さな告白をした。茂庭さんは過去形かよ、と俺をからかうように笑って、それから目を伏せた。その視線の先には乾燥で絆創膏を貼った俺の手があった。
 廊下の窓ガラスは曇っていて、手のひらで擦ってみると白か茶色しかないような外の景色が垣間見えた。この地方では卒業式の時期に桜が咲くことはまずない。咲くのはだいたい入学式の頃だ。卒業生はみんな地面に中途半端に残った雪を踏んで門をくぐって出ていく。茂庭さんが卒業してしまうまで、あと少し、あと少し。胸の中で数えて、俺はなんだか耐えられなくなってしまった。だって、俺ずっと見てきたのに。茂庭さんが主将になる前から尊敬してたし、言うことならふざけてるときだって聞き逃さないようにしていたし、ずっと、ずっと。正体の掴めぬ言葉が外の雪のように俺の内側に重く降り積もる。

「だから本当にインターハイで引退するなんて思いもしなかった」
「前から言ってたじゃないか」
「本当にするなんて思ってませんでしたって、俺、ずっと三年生とバレーできる気でいたから…」

 流石に子供すぎた発言は尻すぼみになる。ずっと、は無理だろと茂庭さんは笑う。どうして一歳しか離れてないはずの茂庭さんの横顔はこんなに大人びて見えるのだろう。自分が少しだけ惨めになる。茂庭さんは今、窓越しに何を見ているんだろう。枯れた枝と雪しかない外の景色から何が見出せるんだ。雪が反射した淡い光に照らされる茂庭さんの頬はいつもより青白く見えた。

「でもこれからは二口がそうなるんだぞ」
「…確かに俺はもっと頼れる主将にならなきゃいけない。でも春高経験してもまだ不安ですよ。黄金川とかコントロールできる気がしねぇ」
「あいつは俺だって苦労しそうだよ」

 小さな声で笑いあって、同じようなタイミングで黙りあう。先に口を開いたのは茂庭さんだった。眉尻を下げるあの困ったような笑みを浮かべて腕をのばして俺の頭を撫でる。うんと小さな子供になったようだった。いや、この人の前では2番なんて何の意味もなくなってしまうほど俺はひどく幼稚になるんだ。

「二口は良い奴だなぁ。他校の選手に喧嘩は売るし口は悪いしどっか軽いけど」
「…それ最終的に褒めてませんよね、どうせクソ生意気ですよ」
「おい拗ねんなって。確かに苦労したけど、俺はいい後輩持ったって本当に思ってるよ」

 茂庭さんは意外と大きく笑う。俺は茂庭さんが笑うたびに心がすっかり安心した。だけどその、俺の大好きな笑みを見て気づく。いや、今になってからようやく気づいた。気づいてしまった。

「…茂庭さん、いつも笑いますね。俺、笑った顔と変な顔しか見たことないです」
「変な顔って」
「どうして笑うんですか。もう一度バレーコートに立ちたいとは思ったこと、ないですか」

 は、と何かの感情のこもった吐息が茂庭さんの口から漏れた。頭を撫でている手を掴む。茂庭さんの手は俺のより小さいということはハイタッチしたときに知ったんだ。茂庭さんが俺を見つめる。しんとした静かな時が止まってしまったようだった。茂庭さんの瞳はどこまでも明るく茶色い。この目でどこまで見透かしてきたのだろうか。不作と言った者たちの表情か、越えられない身長か、俺には到底分からない。

「俺、お前たちなら最強の鉄壁になれるって、本当に信じてるからな」

 力強い言葉がそう言った。俺にはもうすることがないのだと、そう言った。
 俺はもうそろそろこの人を諦めなきゃいけないらしい。子供みたいなわがままも、優しいこの人のことならきっと聞いてくれるだろうけど、俺から引き下がらないとダメだろう。俺は掴んでいた茂庭さんの手を離して窓へ目を向ける。白い景色はいつ晴れるだろうか、水滴のついた窓からは寒さしか伝わってこない。

「卒業式、晴れるといいですね」

 心にもない言葉が俺たち以外誰もいない廊下に響く。茂庭さんの返事もすぐに消えてなくなった。

 卒業式に案の定桜は咲かず、茂庭さんは「まぁ晴れただけでもいいじゃないか」とあの大きな笑みをたたえて門を出ていった。うつむくと汚れたシューズが見える。俺の気持ちの行き場も、茂庭さんの気持ちの行き先も俺は知らない。残ったものは自分の手にある時間と2番だ。俺はそれを抱えて前を進む。茂庭さんのことを思い出すことなんてこの先もう一度としてあるのだろうか。だって、俺と茂庭さんじゃ行き先が違うから。茂庭さんがどこかで一瞬俺のことを思い出してくれるならそれだけで俺は満たされたような気持ちになってしまうだろう。俺は溶けかけの雪と咲かない桜を前に、もう何の言葉も持つことができずにいた。
 茂庭さんは主将になったときその上の主将をどんな気持ちで見送ったんだろう。まだまだ冴えるように冷たい空気が頬を撫でる。吸い込むと木と雪の匂いがした。記憶の中の茂庭さんはどれも困ったような顔と笑った顔しかしてなくて、二口と名を呼ぶ声は急に遠ざかる。
 茂庭さんはどんな気持ちで2番を背負ったんだろう。どんな思いでバレーコートから出ていったのだろう。考えても答えは出ないしきりがない。だけど茂庭さんの後ろ姿を見送った今だと、考えた試しのなかったことも気づきたくなかったことも、この土の混じった溶けかけの春の雪を踏んだ瞬間、全部ぜんぶ何もかも分かってしまいそうだ。

《了》