「お疲れ様です」
一流のアーティストやトップアイドルが立つためにあるドーム会場。
そこで迎えた何度目かのライブは、今回もわずかな破綻さえなく無事に終わった。汗まみれで重そうな衣装も、同じく汗ですっかり落ちてしまったメイクも、照らせば煌めいて光を跳ね返す。
ステージで全てを歌い上げた彼らを、真っ暗な捌け口でペンライトと共に迎える瞬間がとても好きだった。
彼らのひどく満ち足りた表情は安堵にも似ていて、言わなくてもお互いとうに知っているのに、口に出して伝えなければ気が済まなくなるのだ。
「皆さん、世界で一番素敵でした」
当然だ、とでも言いたげに桜庭さんが微笑む。先ほどまでステージで見せていた凛々しい表情とは打って変わった、朗らかな笑みで「ありがとうございます」と柏木さんが私を見る。そして。
「ありがとう、プロデューサー」
暗いところにいるはずなのに、顔いっぱいの笑みは太陽のように眩しい。天道さんは優しく明るい眼差しで周りを見渡し、それから手を叩いた。
「大成功、だな!」
「当たり前だ」
「ドームでのライブも毎回緊張するんですけど、今回も大成功ですね」
三人が口々に感想を言い合い、時折スタッフにお礼を言いながら楽屋へ移動する。まったくたくましく、そして頼れるアイドルの背中を見ながら、もしかしたら彼ら以上に満ち足りた気持ちになっていた。
デビュー時には数社のプレスしか集まらなかったのが、今や全国ツアーが当たり前になっている。それが終われば、レギュラーでの出演や連載が決まっているのに加えてライブの話題だけでもテレビや雑誌に引っ張りだこだ。315プロダクションのアイドルそれぞれが代えがたい魅力を持つ中で、彼らもまた自分たちの輝きを放ち、日々それを更新していく。それこそ今日みたいに。
楽屋で衣装に着替えつつメイクと汗を拭かれる彼らを見ながら、ここまで来るに至るまでの記憶を反芻する。小さなライブハウスで初めてライブをしたときも、パフォーマンス中に失敗した悔しさを滲ませたときも、全国ツアーを走り抜けたときも、私が楽屋で見る背中は最初から今までずっと頼もしい、プロのアイドルのものだ。
「プロデューサー、なにニヤニヤしてんだよ」
先に着替え終えた天道さんにからかわれる。この満ち足りた気持ちの欠片でも分かってほしい気に駆られたけれど、「いいえ」とだけ答えて済ませた。桜庭さんと柏木さんも帰る準備は済ませたみたいだ。楽屋も徐々に静かになっていく。宴のあととはこのことかと思い知るこの静けさも好きだった。
スタッフたちの何人かは打ち上げにいくようだったけれど、三人は明日もレギュラーの仕事が控えているからそのまま帰宅だ。
答えを知りながら、タクシーを手配しようかと提案する。「少し歩いて帰る」とそれぞれの返事をもらい、私は携帯をしまう。彼ら三人だけで短い距離の間、話しながらそれぞれの帰路につくのだ。いつもそうだった。
外に出ると、夏もいよいよ始まったというこの時期、ぬるいと呼ぶにはやや熱すぎる風が吹いた。全国ツアーも駆け抜け、流石に疲労が蓄積している三人は一斉に顔をしかめる。
「桜庭さんは明日早いですよね、ゆっくり休んでください」
「あぁ。どこぞの喧しい輩が帰ったあとも携帯越しに騒がなければすぐに眠るつもりだ」
「おいおい、それは誰のことだよ桜庭!」
「あはは、まぁ二人とも。オレは午後からですけど、今日は早く寝ます」
何万人も収容できるドームが埋まるようになってからも変わらない、三人の賑やかなやり取りを見ながら、思う。
この三人の仲がずっと続けきますように。ささやかだけれど、ほとんど祈りに近いものだった。
「しかしあちぃな。あ、ついに暑い…なんつってな!」
「天道…!」
「まぁまぁ薫さん!」
怒る桜庭さんをひょいと避けながら、天道さんがシャツをパタパタとはたく。
そのとき――見落としそうだったけれど、街灯にちらりと光るものが天道さんのお腹の上にあった。
濡れたように反射したそれを見た瞬間、私は反射的に天道さんのシャツを掴みまくりあげた。
「うぉ! ど、どうしたプロデューサー!?」
「いや今、…天道さんのお腹に傷が…」
痣か傷か――多分、傷だ。茶色くいびつな痕のようなものが脇腹に浮かんでいた。大きさはそこまででもないから、衣装の金具か布でも擦れたのだろうか。
「天道…怪我をしたならすぐに言うべきだ、なぜそうしない?」
「輝さん、大丈夫ですか?」
桜庭さんの尖った声と柏木さんの狼狽した声が頭上に降ってくる。
心配の色を浮かべた二人の反応を受け止めて、天道さんは「ごめん」とも「大丈夫」とも言わなかった。私にシャツをまくられたまま、無言でじっと立っている。
「天道さん?」
不安を覚えて顔をあげると、天道さんは無表情で私を見下ろしていた。感情を全て切り落としたような、何の気持ちも窺えない顔と目が合って、思わず手を離して後ろに下がる。
彼らを担当してから随分長いこと経つのに、こんな天道さんを見るのは初めてだ。桜庭さんと柏木さんも口を噤んで立ち尽くす。
生ぬるい風が纏わりつく嫌な沈黙が流れた。天道さんはようやく動いたかと思えば気まずそうに頬を指で掻いて笑った。いつもみたいな快活な笑顔ではなくて、大人が場をやり過ごすために浮かべる、表面的なものだ。
そして、私たちに告げた。
「願い事が、叶うのかな」
今度は自分からシャツをまくってお腹を見せる。脇腹の傷口はまだ新しいのか、見る角度によって濡れた艶を放つ。天道さんの言葉の意味が分からず、返事に窮しながら傷を見ていた、その時だ。
ペンライトのような、街灯のような――とにかくそれらに似ている光が傷から放たれた。オレンジ色の強く眩しい何かは数秒ほど光ったあと、消えて元通りかすり傷のような状態に戻る。
…今のは、何だろうか?
今目にしたものについて、頭の処理が到底追いつかない。それは他の二人も同じなのか、嫌な沈黙はいよいよ凍りついた空気に変わる。そんな中で、天道さんはまた愛想ばかりの乾いた笑い声をあげる。
「ビックリするよなぁ、うん」
天道さんが笑ったら、傷周辺の皮膚がほんの少しだけひび割れた。目を逸らせずにじっと見てみれば、傷からひび割れが無数に広がっている。
割れそう。状態を示す言葉を当てはめるとしたらそれだ。
「…願い事が叶うと、そうなるのですか?」
間抜けな質問をぶつけたけれど、天道さんは笑わずに「うん」とだけ短く頷いた。
夜空に星が全然見えない日のこと。全国ツアーのラストを飾ったライブ会場を出た場所で一番眩しかったのは、街灯や車のテールランプなんかではなく、天道さんの傷だった。
+++
「つまり、どういうことだ」
「つまり、こういうこと」
「…意味が分からない」
あの晩だけの不思議な出来事、では済まされなくなってきたので、私たちは誰も介入しえない空間――桜庭さんの部屋に来た。
怪我、というわけではなかった。天道さんの身体にできた傷、のような何かは目では分からないほどゆっくり、しかし確実に広がっているようだった。桜庭さんの部屋の、落ち着いた白熱灯の下で見ると擦り傷のような部分は茶色くて、柏木さんはおずおずと「べっこう飴みたいな色ですね」なんて感想をこぼした。確かに乾く前の傷にも近いけれど、血は出ていない。
あの晩、この部分が光っていたようだった。でもこうして目の当たりにしても何が何だか分からず信じられない。天道さんの皮膚が剥がれて、その中にあるものは血肉ではない何かだった。
事象自体もそうだったけれど、天道さん――こんなに聡明で、周りの人を励ますことに長けた人の中に血が流れていないというのが、おかしな話だけれどこの事態への説得力に欠けていた。
天道さんは自分でひび割れた部分に触れてみせる。どんな手触りなのか想像つかないけれど、かと言って触る勇気が出なかった。
「少し、いいか」
「あぁ」
桜庭さんが少し手前でためらうように手をさまよわせたあと、指先を近づけて輝さんの傷に触れた。途端、桜庭さんの眉間に皺が寄る。
「天道、熱があるのか?」
「いや? いたって元気だぜ」
「待て…、この部分だけやたら熱い。それに硬化しているようだ」
触れる面積を一気に多くして桜庭さんは触診のようなことをしているのを、私と柏木さんはただハラハラ見守るしかできなかった。桜庭さんは眉間の皺を深めるばかりで、ひと通り天道さんのお腹周りを触り終えたあと、ゆっくりと深い溜め息をついた。
「分からない。見当がつかない症状だ」
言いたくなかったとでも言いたげに唇を噛み、天道さんの傷を睨む。しかし天道さんはそれに対して驚くことも悲しむこともなく、むしろ当然といったようにあっけからんと言い放った。
「そりゃそうだろ。桜庭がどんなに名医でも人間じゃない奴は診察できないって」
「そんなふざけたことを抜かして、」
「ふざけてない。見たときからとうに分かっているだろ」
私たちを覗き込む天道さんの目はくりくりと大きく、瞳の真ん中に大きな光が宿っている。いつもの天道さんなのに、どうしてこうも置き去りにされたような感覚なのか。私たちは何も言えないままだった。
口には出せなかったけれど、本人の言う通り、光ったり血が出なかったりよく分からない傷のできた天道さんは、言いようのないある種の不気味さを帯びていた。人の身体が光るとしたら、光を吸い込んだ目だけだろう。
「『ここ』は金属とかミネラルでできていて、元々はガスの燃えかすなんだ。ガスが燃えるときに光るんだけど」
「輝さん、オレたちが聞きたいのはそういう話じゃないの、分かりますか」
聞き慣れない、怒気を孕んだ声に身体が硬直する。
柏木さんが怒ったように眉を吊り上げて天道さんと対峙した。一触即発に近い二人に心臓が一気にペースをあげて、慌てて間に入ろうとすると柏木さんに手で制された。
随分長いことドラマチックスターズをプロデュースしているなんて自覚があったのに、こんな風に対立する二人を見るのは初めてだ。年下と年上の関係として最良のものを築けているような柏木さんと天道さん。だからこそ、天道さんの傷のことが一瞬頭から吹き飛ぶほど、今の二人に動揺した。
「輝さんは、オレたちに隠している病気があったんですか? どうして言ってくれなかったんですか? …こんな聞き方したくないです。でも…」
早口でそれだけ言うと、俯いて胸のあたりをぎゅ、と握りしめる。柏木さんを奮い立たせた怒りはみるみるうちに収束していくのが目に見えた。
桜庭さんは、黙って天道さんの返事を待っていた。きっと言いたいことがたくさんあるだろうに、天道さんを静観している。
天道さんは、手を伸ばして柏木さんの肩を叩いた。それから桜庭さんの方を見てゆっくり微笑む。誰に対しても誰よりも誠実な人は、場違いなほどとびきり素敵な笑顔を浮かべていた。
「桜庭、翼。そんな顔させてごめんな」
ゆっくりと手が離れて、一人と二人の距離が開いた。
「病気じゃない。だから治せない。見ての通り、俺は人間じゃない」
「…だったら、僕たちの見てきた天道は、何だと言うんだ」
「うーん、何だろう。お前たちの言う……星に近いのかな? 俺と似たような生命体は地球にはたくさんいるよ。生まれたときは宇宙にいるんだけど、『こっち』へ来るときは人の姿になるんだ。――」
動く唇が、私たちの望んでいない事実を次々と紡いでいく。
「そして、『役割』を終えたら、少しずつ燃えていく。それが始まったんだ」
私たちの知り得ない事柄を述べていく天道さんは、その淡々とした様子こそまさに人間らしくないと感じ、何よりも説得力があった。
目の前が少しだけくらくらする。アイドルに向いていると私が直感で信じ、すぐにその勘を確信へ変えてくれた天道さんは、人間じゃない。何の冗談だと言うのだろう。私は一体何を見てきたのだろう?
桜庭さんと柏木さんも同じ気持ちなのか。呆れて怒鳴るようなことも、ショックで泣き出すこともなく、ただ言葉を失い、唇をかすかに震わせていた。
しかし、桜庭さんはすぐにその沈黙を破る。握りしめている拳は力を籠めすぎて白くなっている。
「もし。君の言う通り……天道が人間じゃないとして。……どうして僕たちと行動しようなんて思ったんだ?」
振り絞った桜庭さんの声は、多くの感情が滲んで揺れていた。
先日無事に終えた全国ツアーの様子を今もハッキリと思い出せる。それが一転して、これだ。
「『役割』を終える」というのが何を示しているのか分からないけど、いいものじゃないのは天道さんの顔を見ていれば容易に想像つく。
――もしかして、終わりなの? こんな風に信じられない形で「最後」が来るだなんて思うはずもない。
「『俺たち』は他の生命体のエネルギーに反応しやすい。反応が大きくなるほど『俺たち』の活動も活発になるけど、その分自身のエネルギーも費やすから寿命が縮まるんだ。その辺どうすべきか、さじ加減はそれぞれによるんだけど…」
天道さんのお腹の傷はやわらかな光を灯していた。天道さん自身がその部分をそっと手で覆うと、指と指の隙間から光は漏れて、「人としての」天道さんの肌色を照らした。
「『ここ』に来たからには、ってたくさん勉強してきたし、いろんな人に会ってきたけど……プロデューサー、桜庭と翼。ドラマチックスターズにいると、めちゃくちゃエネルギーを貰えるんだ。初めてだった。正直、身体にかなり負担はあったし、このままだと人間より先に……もしかしたら、とも思った。でも、……いや」
天道さんの掌くらいだったのに、傷はまた少し広がったようだった。光は強く、その瞳もまた輝いて光を失わない。
「だから、お前たちの側にいたいって思ったんだ」
身体が削れるような真似だと知ってなお、天道さんは迎える「最後」に向けて何ができるかなんて、逆算みたいなことはしなかった。
ただ、私と出会ったときから今に至るまでずっと強く正しかった。例えその一貫された意志が人の持つものではなくても同じだ。取り残されるのは私たちだったとしても、天道さんは自分が選ぶべき道を進んできた、それだけなのだろう。
+++
桜庭さんの部屋を出て、天道さんと別れたあと帰路は私と柏木さんだけになった。
夏の湿った空気の漂う道は静かで妙にさみしい。横を歩く柏木さんの顔を見ると、夕陽に照らされた横顔はいつもよりずっと落ち着いて見えて、その胸中にどんな思いが渦巻いているのか分からず、なんだか別人のように思えた。
もうすぐ陽が沈む。あと数時間もすれば空は暗くなり、星が浮かぶだろう。こんな都会の真ん中では見えても一等星くらいだけれど、それと天道さんが同じだと思うと、奇妙なことだけど、腑に落ちるところもあるのだ。
眩しくて、血はなくても温かくて、あらゆる人を惹きつける。
「『夢が叶うのかな』って輝さんが言ってたじゃないですか」
ふと柏木さんが口を開いた。横を見てもおらず、どうやら私が柏木さんを置いて先を歩いていたらしい。後ろを向くと柏木さんが空を見上げていた。
「誰の夢なのかな、って思ったんです。『他の生命体に反応する』って、輝さんは言ってたから」
反応が強すぎると寿命が削れていく――天道さんはそう教えてくれた。私たちの中にいると、その反応が強すぎるとも。
反応とは夢のことなのだろうか? 夢とはどういうことを示すのか、哲学的な疑問すら湧いてくる。
「プロデューサーは、誰の願い事だと思いますか?」
「え?」
「だってプロデューサーは、オレたちの見たかった世界に連れていてくれたから、なんとなく…」
柏木さんはそう言うとハッとした顔で「ごめんなさい、困りますよね」と困ったように眉を下げて笑った。
誰の願い事、だなんて聞かれても。そう思いかけて頭を振る。
「きっと、皆さんの願っていた夢です。柏木さん、桜庭さんだけではありません。ファンの皆さんだって含まれます。青臭いこと言っているかもしれませんが、私はそう思います」
天道さんが強い反応を受けすぎたせいで本来の姿に戻ってしまうのは、誰か特定の願いを叶えたからではないだろう。
過去に自分で掴み取った夢を手放してアイドルになった彼らを、最初は笑う人もいたけれど、そんな声だって奪い取って評価に変えてきたのが彼らだ。歌やダンスという要素だけではなくて、生き方自体に励まされたファンだってたくさんいる。自分たちの夢を叶えながらも、多くの人に勇気を与えてきた。
例えそれが、結果的には終わりに近づくことだったとしても。
「そう、ですよね」
「はい」
「でも、どうしてでしょう…願い事が叶うと、その次もまた、欲しくなってしまいます」
私をじっと見つめていた柏木さんは、視線を動かして夕陽を見つめる。
限りなく純粋なオレンジ色の光は、三人の色でもある。「ユニットになってから、オレンジ色のものをたくさん買うようになったんだ」なんて言っていたのは天道さんだ。
「今、何かが叶うなら…オレは輝さんと薫さんと、ずっとドラマチックスターズとしていたいと思います。ずっと」
強調される「ずっと」という時間を示す言葉に何も言えなくなる。それは私も同じだった。今、何かを叶えられるなら、時を止めてほしい。しかし、それでは彼らが動けない。時間は戻らない、ただ前に進むのみだ。
残された時間の中でできるのだろう? 次は何ができるだろう、ではなく、もうとうとうこんなことを考えるまでに至ったことに、彼らと過ごした時の長さを思い知らされる。
長かった。でも、三人から目を離せなくて、あっという間だった。寂しさで胸が締め付けられて、ただ苦しかった。
+++
「プロデューサー。毎回思うが、その場しのぎでどうにかなるものか?」
「い、今のところはまだ直接何かを言われては…」
「大丈夫ですよ、薫さん。オレもたまに確認しますけど、よほど目を凝らさなきゃ気づかれません」
「ネットじゃ露出明らかに減ったって書かれてるなぁ」
「そんなくだらない検索するな」
撮影を控える楽屋の中で、傷に肌色のサージカフィルムを貼りつつピシャリと桜庭さんが言い放つと、天道さんはおとなしく携帯の画面を閉じた。三人とも週刊誌やネットで書かれるような下世話な記事を気にする性格ではないけれど、確かに世の中でも色々言われ始めているのは事実だ。
理由は明確で、私が天道さんの仕事量を減らしたからだった。私たちが天道さんの正体を知った日以降、傷の広がるスピードが格段に速くなってしまったのだ。
一部分しかなかった傷は既にお腹全体を覆っているほか、二の腕などにも表れ始めている。見慣れない傷を誰がどう思うかも分からないから、新規の仕事は一切受諾しないようにした。――どのみち、この先もうどれだけもつか分からないのもあるけれど。
仕事の繋がりで新たな仕事が出てくることも多いこの業界で、縁はみるみるうちに薄くなっていく。でも、その中で減らないものがファンからの贈り物と声だった。変な噂が出回ると、一過性とは言え目に見えて分かるほどファンの反応は減るというのに。昔なじみの番組ディレクターや脚本家も、「新しい仕事を振るなら天道さんがいい」と名指しでお願いしてくれる。
好意を汲み取らないというのはとても心苦しかった。だけどそれはきっと、天道さんが一番思っていることかもしれない。彼は傷が広がることになってもなお、来るべきときまでアイドルとして存在していたいのだと言う。
だけど、当然ではあるけど、終わりを知ってもなお、もうすぐこの三人でいられなくなるのを目の当たりにするのはちょっと、いやかなり心苦しい。
延命の術もなく、かといって逃げることもせず、少しずつ減っていく砂時計のために、今できることの最大限を彼らはこれまで通りするだけなのだ。
「終わったぞ」
「ありがとな、桜庭」
桜庭さんは昔の伝手にお願いし、傷をあまり目立たせることなく隠せる肌の色に近いサージカルフィルムを貰ってきて、何かの撮影前にはこうして傷が現れた腕や脚に処置を施してくれる。柏木さんの言う通り、おかげでテレビや雑誌で見る分に目立たない。
だからか、気を抜くと忘れそうになる。時は進んでいくばかりで、医療用の薄いサージカルフィルムの下はすぐ天道さんの身体の内側で、あらゆる光が蠢いて光っているのを。
「最近、傷の広がりが速くなっている気がする」
「……」
「輝さん、痛かったりしたらすぐに言ってくださいね」
「ありがとう、翼。大丈夫だよ、痛くはないんだ」
フィルムを貼られた箇所を撫でて天道さんが笑った。
岩や金属、ミネラル、水素や酸素といったガス。星はそのような物質で構成されているらしい。輝さんの傷が煌めくとき、光を帯びた空気が漂うのだ。
細かな塵を含んだ空気が光を浴びるときにも似ていて、不気味だとか気味が悪いとかを通り越して神秘的としか表しようがない。
「しかし」
桜庭さんが聞き落としそうなほど小さな声を漏らす。
「……ここまで来て、できないことがまだあるとはな」
聞いているこちらが苦しくなる言葉だった。
桜庭さんが貴重な空き時間を惜しまず、なんとかして天道さんが元の星へと近づいていくのを止める方法はないか探しているのを知っていた。液体金属を点滴に、純度の非常に高い、そのままの人体には有害なカプセルをミネラルに……画策は現実の上を滑り流れるばかりだ。
「俺たち、最初に比べたらいろんなことしてきたよなぁ」
昔を懐かしむキラキラとした目に映る私たちは、どんな風に映っているのだろう。多くのものを得てきた人は、それ以上をあらゆる人に与えているようだった。代え難く美しい、私のアイドルたち。
そういえば、いつまでこの人たちを見られるのかなんて、プロデューサーになってから考えたこともなかった。未来の予感にワクワクしておきながら、今を追うのが精いっぱいで、それも楽しくもあって。天道さんがこうなってから、それだけ長い時間が経ったのを思い知らされる場面が多くなった。
「それじゃあ、行こうぜ」
声をかけられる。プロデュースをしているのは私の方なのに、いつの間にかこうして導かれてばかりだと、今になってようやく気づかされた。先にちゃんと気づいておくべきだったかは、今でも分からないけれど。
+++
全てを手に入れたような、無敵の想いを抱いたところでずっと続くものではない。
永遠など錯覚だ。
どんなものにも必ず終わりはやってくる。
どんなに尊敬していても、愛していても。
だから天道さんも、限られた時間の中で私たちをいることを選んだのだ。
プロデューサーの私がそう信じて、誰が間違えていると言えるだろう?
分厚い遮光カーテンを閉め切って、部屋にある電灯を全て消してもこの部屋は明るい。
天道さんの部屋を漂う空気には光の粒が漂っていて、橙色の光を灯しては乱反射して煌めく。
綺麗だな。そう思って手に取ろうとしても、熱い空気をうまく掴めずすり抜けていく。後ろでかすかな笑い声がした。
「無理だよ。前にガスでできているって言わなかったっけ」
知っています、と答えて振り向く。天道さんのあやふやな輪郭が現在進行形でぐずぐずに崩れて壊れてゆく。ひび割れて光のこぼれる欠けた顔で、天道さんが笑った。暗くしているはずなのに、天道さんの部屋はどこもかしこも明るくて目を細める。
天道さんの皮膚を破り漏れ出る光は、服やサージカルフィルム程度ではもう防げなくなっていた。私たちやファンの心を拾い上げるからか、光は日ごとに強さを増していき、皮膚は剥がれてそこからまた新しいヒビが生まれて大きくなってゆくという繰り返しだった。
天道さんが動くと輝いた光の筋が空気に残ってどこかへ分散していく。彼の身体に纏わりつく光を多く含んだガスも、もうどこが手だったか腕だったか脚だったか、天道さんのディティールを曖昧にさせてぼかした。
「昨日、桜庭さんと柏木さんも来たんですよね」
「あぁ。……はぁ、昨日で良かったぜ。今日になったらもうこのざまさ」
既に大部分が固形と気体の間のようになってしまった手と腕で気まずそうに天道さんが頭を掻いた。三人は、どんな会話をしたのだろう。きっと一生、私の知るよしのない話だ。それこそが桜庭さんと柏木さんの二人、率いては三人の願いである気がしていた。
目の前で揺れては煌めく、透き通った光の煙を見つめながら、星の中はここまでこうも美しいのかと溜め息と、ほんの少しの涙がこぼれる。
私が初めて見つけた星は、最期まで人の目を惹きつけるのだ。
「星も人間と同じで死ぬ。でも、そこから新しい星が生まれるんだぜ」
ロマンチックだよな、なんて天道さんはおどけて笑ったけれど、私は素直に納得する。彼の身体から放たれる光を見ていれば、そんなことすぐに分かった。
星は他の生命体に反応するという。永遠を信じていたいのなら、欲を覚えなければよかったのに、私は彼らのあらゆる未来を祈らずにいられない。そして、私の願い事も。
「なら、もう一度見つけられますね」
「何を?」
「天道さんを」
あまり飲めないお酒を煽りながら自棄に陥っていた弁護士の天道さんを見つけたとき、全く知らない人だったのに、ようやく見つけられたなんて、ずっと探していた人に出会えたような気持ちを抱いたことを鮮明に覚えていた。
一回見つけられたのだ。二回目ももちろん、当然だ。
「私が一番初めに、天道さんを見つけます」
あたりはどんどん眩しくなり、逆に周囲がよく見えなくなっていく。天道さんは一度俯いたあと、顔をあげて声を絞り出した。
「俺はずっと、みんなのこと見守っている。ずっと傍にいる。星は死んでも、また生まれ変わるんだ。だから、――また見つけてくれよな」
全てをやり切ったあとの、安らかな笑顔。
周囲の明るさと暗さの濃さに浮かぶと――まるでここは、ステージの捌け口だ。
「天道さんは、世界で一番、素敵なアイドルです」
息を吸うと、別れの予感にあふれてこぼれそうな胸へ光が多く入ってくる。
アイドルを見送り、出迎えるときと同じ明暗の中で、私は天道さんの未来を祈った。
《了》