天国にいきたい(再録) - 4/5

 泣き止まない雨雲が黒く染まり、夜になる。埋めることのできない胸の内を塞ぎたくて、冷房の空気が染みて冷えたベッドに潜り込み、無理に目を閉じた。

 靄みたいな光に包まれていて、辺りは何も見えない。目的地も分からないままに掻き進んでいくと、それまでは浮いたような足の感覚が、ふとふかふかしたものに変わった。足元を見ると、どうやら赤い絨毯の上に立っているらしい。顔をあげると視界も変わっていている。色とりどりのガラス窓が均一にはめ込まれており、見上げると十字架が見える。ここは――教会だろうか。
 絨毯の先、木目調の長椅子が見える。そこに誰かが座っている。背もたれから覗く後ろ姿を見て、まず背中が目についた。綺麗な背すじ。俺はこの人を知っている。
 名を呼ぼうとした。だけどなぜだか声が出てこない。息ばかりがこぼれて、喉の奥が塞がったみたいに苦しい。辺り全体が急に眩しくなって、思わず手を顔の前に翳したけれど、指の隙間からその姿をなんとか捉える。
 強大な光に呑まれて消えていく背中に手を伸ばす。今度こそは、離れていかないように。近づいているのかどうかも分からないまま、腕が突っ張って痛いほどに伸ばして、出ない声を張り上げる。
「さくらば」
 振り向いたその顔までは分からなかった。

 水面に向かって勢いよく浮上していく意識があった。
部屋から酸素が出ていったんじゃないかと思ってしまうくらい息苦しい。――夢? 何が何だか理解できずにいる頭が眠気からの覚醒と共に冷静さを取り戻していく。首だけを動かして左右を見ると、当たり前だけれど使い慣れた家具やらハンガーに引っ掛けてある上着やらがそこにある。薄暗闇の中で、俺たちがCDデビューしたときのポスターが妙に目についた。
 身体を起こすと寝間着は驚くほど湿っている。暑くなってきたというのに冷房でもつけ忘れたか? 思った瞬間、ごぉ、と一瞬強く吹いた人工の風に否定された。喉の奥が粘ついてむせ返りそうになる。枕元に置いてある時計を確認すれば、夜明けの境みたいな時間だ。ぱたぱた、とコンクリートを打つ音が聞こえる。雨が弱く降っているのだろう。
 最悪な寝起きだった。苛立って髪に手を突っ込むと、指通りが悪くて髪まで重たい気がする。不貞腐れていく気持ちを止められず、二度寝してやろうかとも思ったけれど、長いこと続いている雨と寝汗でシーツが湿っていて、どうにもそんな気が湧かない。洗濯、しなきゃ。部屋干ししなきゃいけない憂鬱さに若干辟易しつつ、ひとまずシャワーを浴びることにした。
 肌に張りつく寝間着と下着を脱ぎ、ぬるい空気に満ちた浴室に入る。ハンドルを回せば汗で覆われた身体に熱が染みていって心地いい。こんな気分でもう一度寝られればさぞかし素晴らしい快眠に導かれることだろう。
タイル壁に額を当て、ぼんやりと少しそのままで過ごす。今日は何か月かぶりの丸一日オフの日だ。桜庭と翼は個人の仕事があるから特に会う約束もしていない。だから目覚ましをかけずに寝ていようと思っていたらこれだ。立ち上る湯気の中で目を閉じる。何度も会っているからか細部まで鮮明に描ける、俺を悩ませる人物を思い出す。悩ませると言っても、出会ったばかりの時とは抱いている感情がまるで違う。
 教会にいる夢を見た。光を昇華させたような清らかなその場所に桜庭がいた。何をしていたかまでは分からなかったけれど――祈っていたのだろうか。
 目を閉じる。雨のよく降る朝のような薄闇の中で、誰も触れられない表情を思い描く。及ばぬその瞳の先を追う。絶対のものとして存在する十字架に抱く憧憬は、どれほど強いだろうか。
 …このままじゃ埒が明かない気がする。浴室を出て身体を拭く。考えは何一つまとまってはいないものの、気分だけはかなりすっきりした。寝汗だらけのものをもう一度着る気になれず、新しい下着を取り出して着替える。髪を乾かしながら、今日一日をどう過ごすかを考える。
 ありがたいことに、今となっては丸一日のオフなんてかなり貴重だから、やりたいことがたくさんあったはずだった。気になっていた長編小説を読む、食材を買うところから始めて手の込んだ料理を作る、思い切って惰眠を貪る、旧友に会いに行く…せっかくだから、と思い浮かべていたことの数々を、まぁ今度でいいか、と次にいつあるかも分からないのに見送る。それよりもやりたいことがあった。
 私服に着替えて、朝食の準備をしながらテレビをつける。朝の天気予報が、今日は晴れ間が覗く瞬間があるかもしれないことを告げた。窓の外を見てもにわかには信じられない。だけど、一〇〇かそれに近い数字以外の降水確率を見るのはかなり久しぶりな気だったから、それだけでもいい日だ、なんて能天気なことを思った。

 マスクをつけて、濡れてもたいして気にならないスニーカーを履いて外へ出る。傘をさして、行く先なんて特に決めないで、気の赴くままに歩き出す。
 雨の日に散歩、なんて言えばきっと変わった人という烙印が押されることだろう。それ以前に雨の日に積極的に外へ出ようなんて気分になった覚えはあまりない。ぴちゃん、とコンクリートの上を跳ねる雨粒に混じって、スニーカーがとても浅い水溜まりを踏む、ぱしゃ、と弾ける音が耳に届く。傘を打つ雨音も、今は頭の中をすっきりさせる環境音としては良かった。
 部屋でじっとしているとますます塞ぎこんでしまう気がして、それなら外に出て歩いてみよう、というそれだけの理由で歩きだした、のはいいのだけれど。
 弱い雨といってもこんな中を好んで出歩いている人はほとんどいない。学校や会社や家、みんな思い思いの場所にいる時間であることを考慮しても、すれ違う人や追い抜く人なんて見かけない。これはマスクもいらないくらいかもしれない。だけど、一人でいる方が自由な気分でいられた。さて、ここからどこへ行こう。
 桜庭と翼と一緒にこの辺りはもう何度も、数えきれないほど歩いたことがある。俺の家へ遊びに来るときは三人でこの道を歩いて、酒やらつまみ、食事の材料なんかを買いに行くんだ。真っ直ぐ歩いていけばそのうちスーパーが見えてくるその道を辿る。ただ単に歩くだけなら何の面白みもないけれど、いつも三人で歩いていたから、こうして意識しながら一人で歩くとなんだか意外なほど寂しい。
 

 目が冴えるほどの眩しい青。重くのしかかる湿気を太陽が乾かして、いよいよ夏が始まったと実感させてくれる。
 桜庭のソロコンサートの準備も大詰めで、ここのところの桜庭といえばスケジュールの間と間を切り詰めてレッスンに向かうところしかろくに見かけていない。聞けば本来なら本人からの要望を伺った後はスタッフ間のみで行われる演出会議にもなるべく顔を出して、主役は蚊帳の外、なんてことのないように一緒にステージを作り上げているらしい。
 この時期かなり忙しいだろうに、プロデューサーから様子を聞いても、ユニットでの仕事で会っても、不調なところを探す方が難しいほど事は順調に進んでいるようだ。コンディション管理も、本人の気合だって充分すぎるほど。
ただ、あの――桜庭が明かすはずのなかったところを俺に見せてしまった日――そのときのことを思い出すのか、最近の桜庭は俺と目を合わせるとふいと逸らす。俺の方も意識していなければきっと分からなかったほどの所作だ。
そのたびに胸の中を涼しい風が通り抜けるのを感じていた。分かっていても、この気持ちを言葉で言うなら「寂しい」以外の何物でもなかった。だって、好きな相手の全部が欲しいし、俺の方は何を言われたってきちんと受け止める覚悟はできているつもりなんだ。
 ただ、これはもう、…俺が桜庭にどうこう言える話じゃないのだろう。絶対に触れられないものを知った、あの言いようのない空虚。だけど、例えそこに一生をかけて手が届かなくたって、俺は。

「桜庭」
 彼はソファに腰かけていた。綺麗な背は、今は完全に背もたれにもたれかかっている。
移動と移動の合間。やっぱりいると思った。大仕事が近づくと、精神的な緊張も否応なしに高まってくる。パフォーマンスに影響しないよう細心の調整はしているものの、桜庭も流石にけっこうな疲労感を覚えているのか、一番落ち着くであろう事務所にいて束の間の休息をとっていることが多かった。
久しぶりに晴れた平日の昼下がり。他の誰かがいないのはもちろん、雨の音が聞こえないだけでこんなに穏やかな静けさに満ちるなんて初めて知った。
桜庭は俺を見あげる。眼鏡越しに見えるのは、強い力こそぶつけないものの、意図ははっきりとした、拒絶。あの日、俺に見せたものについて何か言われるのを予感しているのだろう。また目を逸らして、「何の用だ」と力なく言った。
「最近、どうだ」
「どうだ、だと…見ての通りだ」
「うん、分かってる。絶好調だよな。俺、もはや一人の客としてお前のコンサート楽しみにしてるんだぜ。あ、翼と会っても桜庭の話ばっかだよ、最近は」
 意図を汲みかねているのか桜庭が少し眉を顰めてまた俺を見た。そんな表情でも、あぁ、――やっと。
「やっと、こっち見たな」
 目を見開いて桜庭は俺を見つめる。綺麗に切れたその瞳に写る俺は、どんな顔をしているのかな。桜庭、桜庭。胸の中で何度も名を呼ぶ。その熱い思いがあと少しのところで零れ落ちてしまう前に、桜庭の手を取った。どういう、と桜庭が口を開いたのを遮って身を翻す。
「せっかく晴れてるんだからさ、外で話そう。」

 屋上に出る、金属製のやや錆びついた扉を開く。夏の初めの、少しずつじわじわと肌に染みて焦がすような日差しに一瞬目を細めた。身体にまとわりついているクーラーの空気なんてすぐにどこかへ行ってしまいそうだ。
 ほとんどなし崩し的に手を引っ張られていた桜庭は腕を振って俺の手を振り払う。それこそ完全に困惑したようにさっきまで繋いでいた手をさすり、それから、――きちんと俺を見た。対峙して、桜庭はもちろん、俺だって逃げられなくなる。
 車の通りも少なく、時折吹き抜けていく風すらも優しい。特別なんて印象はないし、教会ほどの神聖さなんてどこにも見当たらないけれど、この場所で初めて出会った俺たちにとっては、「これから」の話をするには一番良い場所だと思えた。
「何の用だ」
「うすうす分かってるんだろ?」
「…前の、あの日のことか」
 あの日のことは、桜庭にとっては失態だったのだろうか。何かに押しつぶされているような桜庭の声は、これ以上余計なことを言わないために息を切り詰めているのかもしれなかった。
 薄闇の中で描いた瞳とぶつかる。強い光を宿して、今まさに俺を捉えて離さない。耳の側で速くなっていく心拍がやかましい。だけど、見つめ返すことで応える。

 そうだ。
 そうだよ、桜庭。
 こっちを見てくれよ。
 俺がお前の側にいるって、気づいてくれよ。

「…あのときは、僕も少しどうかしていた」
 苦し気に顔を顰めて自分のシャツの胸元を掴む。何が苦しいと言うのだろう。今、ここには桜庭と俺しかいないのに。なんだか、身体がリンクしているようだ。俺も、苦しくて、寂しくて仕方がないんだ。
 どこから話そう。息を吸って、確かに桜庭に届くよう――祈りを込める。
「その「あのとき」のことを、俺はずっと考えてたよ」
「忘れてくれたって良かったのだが」
「忘れられるかよ」
 ぎりぎりと胸が締めつけられる。恐怖やら羨望やら怒りやらが渦を巻いて、火を点けられる。
「お前は、忘れられるのかよ」
 かすかに震えた溜め息が出た。あぁ、また…手が冷えていく。感情はひたすら燃え上がってぐちゃぐちゃだと言うのに、身体は指先から冷えていって、暑さ以外の汗だってこぼれそうで、何を言われるのか何を考えているのか図りかねている桜庭よりも、もしかしたら俺の方があらゆる気持ちが噴き出して今にも崩れてしまいそうなのかもしれない。
 ゆっくり、静かに深呼吸する。気休めにもならないくらいだったけれど、一度目を閉じて開く。桜庭から目を逸らさないように。背を向けられないように。その姿が、遠ざからないように。
「教会に行ったとき、思ったんだよ」
 ステンドグラスを通った美しい光。自分までなんだか特別な存在になったかのような、清らかでかすかな陶酔。
思い描いたのは結婚式だった――素晴らしい未来の図が確かにそこにあった。そんなところで堂々と歌う桜庭は、とてもかっこいいだろうとも。
「明るくて、綺麗で…あのとき、六月だっただろ。ジューンブライドの季節って話なんかも出て、ここでこの先の未来を祝えたらどれだけいいんだろうって、そう思ったんだ」
 だけど、そんな夢のような光景の中で、桜庭は過去を思い出していた。この悔しさがどうやったら伝わる? 何よりの未来が待っているのは桜庭だって変わらないはずなのに。
 過去を背負わせてほしいなんておこがましい考えはとてもできない。ただ、知ってほしい。
「お前が教会でどんな願い事をしていたかなんて、俺は知らない。でも無理に聞きたいんじゃない。俺たちは…それでも信じあっているから」
目の前にゆらゆらと蜃気楼が立ち上る。いいや、これは違う。そのうち目の奥が痛くなっていって、日差しの熱が移ったみたいに頬が燃えてゆく。
 桜庭の姿が揺らいでぼやけそうになったから目をこする。感情に言葉が追いつかなくても、それでもなんとか気持ちを外に出す。
「過去を受け入れろなんて言えねぇよ、お前の過去はお前だけのものだから、ただ」
 記憶にこびりついて消えてくれない桜庭の後ろ姿を追いかけて腕を伸ばす。振り向いたら、どんな表情が見えるだろう。
「どんな過去があったって、それがなければ今のお前はここにいない、から…だから、馬鹿げているなんて言うなよ」
 息が上がって、ほとんど悲鳴に近かった。

「俺は、今の桜庭が好きだよ…!」

 ざん、と切るような風が吹いて、頬を伝う涙を一気に乾かしていった。雲が流れて、太陽を一瞬隠す。すぐに雲間から光が差し込んで、桜庭と俺を照らす。
 桜庭は――俺を見つめて、それから俯いた。あらゆる気持ちが煮えたぎったせいでろくに感覚のない足を動かして近づこうとすると、桜庭が手でそれを制した。
 顔はすぐにあげられた。いつも通りの、隙を見せない桜庭の顔。だけどそれは瞬く間に少し崩れて、日差しが眩しいのか、目を細めて俺を見る。
 そして、――歩み寄るのは桜庭の方だった。俺に腕を伸ばして、彼らしからぬ覚束ない足取りで近づき、恐る恐るとでも言いたげに俺の手を掴む。見かけだけで受ける印象より、実際の桜庭の手はとても熱くて、その刺激だけで心臓がどくんと跳ねて、背すじが軽く痺れて身体が固まる。
「今がどんなに良くたって」
 すぐ近くで聞こえる桜庭の声は、確かな存在感を持って心の深くまで刺さっていくのに、この場所に吹いて俺たちの髪を撫ぜる風と一緒で、軽くてひどく穏やかだった。
「過去は変わらないし、変えたくても変えられない。何もできなかった自分が確かにいたのだと認めて、この先も生きていくんだと、…そう思っていた」
 腕を引き寄せられ、顎に桜庭の肩がぶつかる。確かめるように少しずつ腕を背中に回され、胸がくっついたと思ったら、あとはあっという間だった。
強く抱きしめられて、その苦しさと熱さに、触れている部分から際限なく甘く痛い熱が湧いてきた。その切なさに息が詰まる。本当にそうしていいのかという戸惑いを感じながらも、少しずつ桜庭の背に腕を回す。
あの綺麗な背すじに、とうとう触れた。その背中を形作っているものは、この両腕程度じゃ簡単にとりこぼしてしまうだろう。それでも、――桜庭の肩越しに見る空はひたすら青くて透き通っている。
「それでも過去は、僕にとってとても大事なものだ」
「…知ってるよ」
 今、どんな顔をしてる? 痛いくらい背中を掴まれて、首筋に感じる息すらも熱い。そうだ、と桜庭は気づいたように呟いた。

「過去を経て辿りついた今も、大事なんだ」

 何かを言おうとして、でもとても言葉なんて出てこない。触れているところから陽射しを直に浴びているアスファルトみたく焦げていっているような気がするのに、虚ろな冷たさが響いてやまなかった胸の中へ、温かい水が染みていく。
 駄目、だった。完全に満ち足りてしまった。お互いの全てを分かり切るのはできないこと、そしてそれでも、相手を欲すること――本当に知りたかったこと、全てを理解してしまった。
 俺たちを照らす陽射しが目に染みて、なんだかひどく泣き出したい気持ちだった。