果たして、梅雨はその正体を現すのが遅れただけだったのか。夏の空気は雨の匂いを一緒に連れてきたようだった。七月最初の週の天気予報にはほとんど傘マークがついている。梅雨入りは一ヶ月近くも前の話なのにね、なんて会話をもうあちこちで耳にした。
ばたばたと窓を打つ雨の音で目が覚めた。目覚まし時計を確認すると、起きる少し前だったからそのままベッドから出る。朝だというのに空は薄暗く、目を開けたときはまだ日の出前とすら思ってしまったほどだ。
身支度を整え、食パンを焼いている間にコーヒーを淹れる。ほろ苦い香りが冷房の空気と少しの湿気に満ちた部屋に広がって、少しずつ頭の中が覚醒していく。
最近は番組収録といった定期的なもの以外でドラマチックスターズの三人の仕事があまり無い。前に曲を出したときからしばらく経っているからいわゆる閑散期だ。公表はしていないけれど、桜庭のソロコンサートが終わり、秋が深まりかける頃に新曲が出ることは決まっている。その時はまたレッスンやら何やらで忙しくなるのだろう。
テーブルへトースターとコーヒーを持っていき椅子に腰かけ、トースターの焦げ目にバターがゆるく溶けていくのをぼんやりと見ながら口に運ぶ。ざあざあと降る雨の音を聞きながら、どの靴を履いて事務所へ行こうか考えた。
天気がどんなに定められた月の通りに行かなくたってやることは変わらない。翼も桜庭も、事務所のみんなだって思い思いに過ごして、トラブルなんてここのところついぞ聞かない。俺だって仕事は順調なのに、たった一人――桜庭が気になって、今みたいなふわふわとした時間にふと心に存在が浮かびあがってくるんだ。
プロデューサーに聞いたら、ソロコンサートの準備はとても順調らしい。だろうな、と素直に思う。三人で集まったときには必ずその話になるけれど、桜庭の口からは「問題ない」とか、歌い方がまだ工夫の余地があるとか、出てくるのはそればかりだ。
順調なのは俺も疑っていない。ただ、これは――俺の問題ってだけ。ただ、…それだけで。
外に出ると大きな雨音に出迎えられる。傘を開けばますます視界が灰色に濃くなった。喉の保護と、意味があるのかないのかよく分からない顔隠しとしても使っているマスク越しに、アスファルトを打つ雨の匂いが立ちのぼる。
最近、眠りに入るのがほんの少しだけ遅くなった。目を閉じるとそれをきっかけに反射のように思い出してしまうんだ、あの日の桜庭の表情を。
自分で考えたところで答えは出ない。だから、知りたい。信頼を壊すような不躾な深入りなんて絶対にしたくないのに、欲だけは抑えても蓋の隙間から存在を主張する。
いつか、知る時が来るのだろうか。知らなくたって、俺たちはやっていけるし、今までがそうだったから。どうして今更こんなところが引っかかるんだ? じつは本当に、桜庭にとっては少しの問題という可能性も充分あり得るのに。そういうこともある、という言葉で解決できない何かが自分の心の中で硬直して、うまくやり過ごすことができない。
「あ」
ふと気づいて思わず声に出てしまった。今日は事務所に寄ってから現場に行く予定だけれど、事務所に今、もしかしたら桜庭がいるんじゃないのか?
俺の予想は的中した。ドアを開けると、桜庭はソファに腰かけて本を読んでいる。平日の午前だから学生陣は誰もおらず、プロデューサーは別現場の付き添いだろうか、姿が見えない。
桜庭の読んでいる本は今度ドラマ化するもので、彼はキャストの一人として決まっていた。なんてことのない、いつも通りの桜庭だ。だけど、心の準備をしていたところで、心臓の表面を冷たい風が軽く通りすぎたように居心地が良くない。
「おはよう」
「…おはよ」
俺のその言葉だけで、桜庭がこちらを穿つように目をわずかに細めた。それに気づいていませんというフリをしながら桜庭の隣に腰かける。
「このあと移動なのか?」
「…まぁ、そうだが」
横目で俺を見ていた桜庭が、言及しなくても良いと判断したのか視線を本へ戻した。
やっぱり、桜庭の方も俺に何か思うことがあっても言い出せない場合があるのだろうか。なら、どうして言い出せないのだろう。桜庭は無駄なものを嫌うから、必要ないと判断すればそれまで、なのかもしれない。じゃあ、俺は? 聞いたところで仕方がないと頭では分かっていても、心では納得していないのが現状だ。
少しだけ、なら許されるだろうか。果たしてどこまでが? 詮索は良くないこと、もしかしたら些細なこと、信頼に罅を入れるかもしれない…色々な考えが頭を巡って言葉になって、口をついた。
「桜庭って、教会に行ったことあるって言ってただろ?」
「…あぁ」
「それって、どうしてだ? やっぱり結婚式?」
ちょっと、気になって。聞いていいのか分からない自信の無さが出てしまって、意識せずに言葉尻が徐々にフェードアウトしていった。
桜庭は――不意を突かれたように目を見開いて、それから本を閉じる。あの、何に集中しているのか分からないときの横顔。急に距離が開いていき、取り残された不安。やっぱり聞くんじゃなかったのだろうか。急に不安が渦を巻いて胸の内から押しつぶすように巡る。
桜庭は――怒りも呆れもしなかった。
「…どうしてそう思った?」
「え?」
「何か根拠があって、そんな質問をしているのではないのか」
「あぁ…」
尋ねられて、ここで嘘をついても仕方がないと思い正直に伝える。
「教会に見学しに行った日あっただろ。あのとき、桜庭が何考えてんのかなって、ちょっと気になって…」
「……」
窓を打つ、屋根を叩く、樋から滴る。色々なところから雨の音が俺と桜庭の間にまで入り込んできて、答えを待つまでの静けさを嫌に際立たせる。
今、何を考えているのだろう。桜庭から拒絶の意を感じているわけじゃなかった。ただ、こちらから手を伸ばさせてもらえないような、一歩踏みとどまらせるような。…俺たちの間に何があると言うのだろう。
「教会には、行ったことがある」
迷いはない、よく聞こえる声だった。桜庭の背すじはソファに凭れかかることなく真っ直ぐで、視線の先を追うと、窓をぼんやりと眺めているだけにも思えたけれど、その先に何かの形を見出しているのかもしれなかった。
「…昔の話だ」
ぽつりと、それこそ雨のように小さく、それでも確かに綴られていく言葉。耳が桜庭の声以外を拾えず、外の音なんて遮断してしまったみたいだ。何を話されるのか予想もできなくて、確かな緊張を感じているはずなのに、速まる脈も心臓の音もなぜか意識に入りこんでくることもなく、頭の中は妙なほど澄んでいた。
「出入りに関しては今考えると寛容だと思う。子供の頃、よく教会で祈っていたんだ」
「…祈っていた?」
「別に何か特別な信仰があるわけじゃない。ただ、…」
俯かれ、少し伸びた桜庭の髪がぱさりと顔にかかり、彼の表情を一気に見えにくくさせる。言葉尻を濁して言いにくそうな様子は桜庭らしくなかった。
…これを望んでいたわけじゃない。したかったのは詮索めいた真似じゃなくて、ただ確認したかっただけ。けれど、その根幹には知りたいという欲があることに今更ながら自分に愕然とする。言いたくなかったら別にいい、苦しい思いをさせてまで聞きたいわけじゃない。そう言おうとして、桜庭が先を越す。
「教会という場所に目が眩んで、願い事を唱えれば叶うと思っていた。…今思えば馬鹿げている。あの頃の僕は、今そのときのことをどうにかしたくて――」
いるかも分からない、神の存在に縋っていたんだ。
ふいに、現実に引き戻される。ばちばちと弾けるような音をたてて、雨粒がガラス窓にぶつかり雫の轍を作る。雨脚は強くなっていく一方だ。七月にも入ったというのに、膝の上で握っていた手が冷えて、その感覚がなんだか恐ろしい。息の仕方も忘れたまま、ただ桜庭を見るしかできなかった。
桜庭も俺を見る。そして一瞬また俯いて、その顔に浮かんできたものは微笑だった。今まで見たことない表情に心臓を捉えられて、凍える。
「本当に昔の話なんだ。だから誰かに話す気もなかったのだが、…」
本を鞄へしまい立ち上がる。その背中を見上げる。桜庭が、今どんな顔をしているのか俺からは見えない。
「…僕も気が抜けているのかもしれない。まさか天道に指摘されるとはな」
そろそろ移動だ、と告げてその場を去っていく。カツカツと床を踏む靴の硬質な音が、虚ろ気な胸の内に反響して消えていく。遠ざかる背中に声をかけるなんてとてもできなくて、冷え切った手の甲ばかりを見つめていた。
桜庭は怒っているわけではなかった。呆れたり、失望したりしたわけじゃないんだ、と思う。俺から聞かれたことを答えただけ。俺は、その答えを聞いて――言葉が届かないとは、こうも身体の末端から冷えていくものなのかと理解してしまった。それだけのこと、という便利な言葉で何も上手に消化できない。
人に話したくないことは話さなくてもいい。俺たちの信頼は、相手のプライベートを全て知ったおかげで成り立っているようなものじゃないから。だから、この話だって、人には色々あるよな、って。それだけで片付けたらいいじゃないか。
言い訳に使える理由が頭の中で浮かんで、これならと掴もうとすると霧散する。脳裏にしっかりと焼きついてしまった桜庭の背中を思い出す。
納得できなかった。これで終わりにしたくなかった。だけど、こうも閉ざされて。何もできるわけ、ないだろ。桜庭という人間の、芯にある部分について知る瞬間は今に至るまで何度もあったはずなのに、垣間見て直に触れてみたこの手は彼の背中を追うこともできないまま、ただ膝の上で小さく丸まったままだった。
「桜庭」
このままだと、さっきの桜庭の小さな声を忘れてしまいそうで、何かが堪らず一人で名を呼んだ。だけどやまない雨の音が身体にまとわりついてひたすら重くて、苦しい。どうして、どうして。桜庭にぶつけられなかった言葉が、満たされない心にがんがんと響き渡って、やまない。
「俺、お前のことを分かりたい」
口にすれば、届かないものへの憧れが確かなものになる。
――昔の桜庭も、同じ気持ちだったのだろうか?
