六月の終わり間際、梅雨が自身の存在を思い出したかのように天気のはっきりしない日が増えてきた。日々は時々灰色の空を引き連れて過ぎていく。
ソロコンサートで歌う曲と順番が決まり、桜庭のレッスンが本格的に始まった。コンサートの本番は八月の終わり頃で、まだまだその時期は夏の熱が続いているだろう。自分の曲に加えて、ちょうど夏に流行った昔の歌謡曲をカバーするらしい。
ここ最近では時間があればイヤホンをつけている桜庭をよく見る。聞けばカバーする曲を聞きこんでいるとのことだった。曲の持つ良さを損なわないように自分の歌い方に落とし込むにはどうしたらいいか考えている、と。
もう何度も思ってきたけれど、逆に言うと何度見たって改めて桜庭のこういうところに感心する。当日まで何があるか分からないという一般論は持ちつつも、レッスンや休憩時間の合間に見かける桜庭を見るだけでも、きっとこのソロコンサートは成功に帰するのだろうと思えた。
ユニットでの仕事を終え、このあとすぐに仕事が入っている翼と付き添いのプロデューサーと別れた。俺と桜庭もこの後は別個でスケジュールが入っているけれど、確認すると移動を考慮してもだいぶ時間が空いている。二人で一旦事務所に戻ることにした。
ビルの外へ出ると、まだ昼少し過ぎだと言うのに空がどんよりと暗く随分怪しい。プロデューサーが手配してくれたタクシーに乗り、事務所の場所を告げる。ドアが閉まると道路の喧騒も一気に断たれて、エンジン音と車内に染みついたかすかな煙草の香りのみの空間ができあがった。
隣に腰かける桜庭が当然のようにポータブルプレイヤーを取り出し、イヤホンを耳にかけた。俺も鞄から次に撮影を控えている番組の台本を取り出す。
ここでゲストがコメント、一旦CMを挟んで次コーナーの準備、番組EDに採用された新曲の紹介は司会が担当…、決められた時間内に全ての物事が流れるように計算され尽くした番組の構成。
ふと、桜庭の様子が気になった。横目で確認すると、メモを書き込んだ楽譜に目を通して集中している。本人は音を聞いて何かに没頭しているんだろうけど、いかんせんイヤホンだから何を聞いて何を考えているのか全く分からない。俺が隣にいることなんて頭から抜けてしまっているようだ。
静かだ。運転手はカーラジオをつけはじめたというのに、不思議とはっきりそう思った。
桜庭はたまに俺や事務所の人間を「騒がしい」と言う。昔なんて「うるさい」とストレートに苛立ちをぶつけてきた。昔、か。出会った頃は桜庭がただ何か意固地に閉ざしているように思っていたせいで、こうして桜庭が沈黙を作り出すたびに言いたいことがあるなら言えばいいのに、なんて桜庭の持つ沈黙を前に、ささくれだった心をうまく諫められないままに思ったりしていた。
だけど違った。ただ、桜庭は静かだった。内から放たれるものがひたすらに静的なだけだ。それがはっきり理解できたのはいつ、なんて具体的な日や状況は分からない。ただなんとなく、桜庭は大事なものを示すときに多くの言葉を使わないんじゃないかということを、気づいたときにはもう分かっていた。
こんな風に二人きりになった瞬間静かになるなんて、昔の俺なら余計な言葉を一言や二言、言っていたかもしれない。だけど今の俺は、当然のように台本を取り出して、自分のことに集中した。これは果たして成長か、理解か、信頼か。全てがテレビの収録みたいにスムーズだったから、こんな些細なことになんだか妙な感傷を見出してしまうのかもしれない。
懐かしいな。ほんの少しの喜びを噛みしめる。だけど――桜庭が控えている大仕事、教会でのソロコンサート。教会見学のときに桜庭に対して確かな違和感を覚えた。席を見つめていた横顔を思い出す。言葉にできないし、勘違いだと指摘するのが桜庭以外の第三者でも、恐らく納得してしまう程のものだ。
俺の隣に腰かけて、静かに楽譜を追って曲を聞いている桜庭はいつもと変わらないように思える。尋ねたら怒るだろうか? それとも怪訝な顔をするだろうか。自分でも何が聞きたいのか分からないようなことを尋ねるのはちょっとためらわれた。
ただ、でも、ちょっと。曖昧な言葉ばかりが桜庭に尋ねる言い訳のように浮かんでは消える。
桜庭と違ってあまり集中しきれず、窓の外を見る。タクシーはすっかり見慣れたビル街に入っていた。事務所にももうすぐ到着するだろう。せめて、この短い間だけでも台本の中身を再確認する。
目の前ばかりがやたらとよく見え、周りの音が遠くなる。
どんどん意識が集中していく没入感の中でも、事務所についたら軽く桜庭と話がしたいと頭の片隅でしっかり考えていた。
程なくしてタクシーが事務所のビル前に着いた。乗る前よりも空が濃い灰色を宿していて、タクシーを降りてからビルまでのほんの短い距離ですら歩を急ぐ。
「雨、もうそろそろ降りそうだな」
「僕が天気予報を見たときは、夜には曇りに戻ると言っていた」
階段を上りながらそんな会話をする。仲間が増えたから、上り途中で今、事務所にどのくらいの人が待機したり遊びに来たりしているかなんとなく分かるようになる。学生なんて笑い声がどんどん聞こえてくるから、人数以上に賑やかに感じるものだ。
今は――ドアを開ける。予想していたとおり誰もいなかった。別段驚くことでもない、雨の日はこういう状況が多い。学生たちが放課後に立ち寄ることが少なくなるからだった。今の時期は期末テストが近づいているのもあってか、時々驚くほど騒がしいものだから、水を打ったようなこの静けさはもの悲しさを感じるくらいだ。
各ユニットのスケジュールがビッシリと書き込まれたホワイトボードを見る。賢も今日は大学から直接来るらしい。出る時間は違うけれど、俺と桜庭もしばらくしたらまた事務所から仕事場に向かう。束の間、というのはこういう時間のことを言うのだろう。
二人でソファに座って軽くひと息つく。そこでテーブルに付箋のついた雑誌が置いてあるのが目についた。この事務所と縁があるとはとても思えない、カラフルな表紙が強い印象を持つ女性向けのファッション雑誌だ。気になって付箋の貼ってあるページを開くと、鮮やかな写真――桜庭がソロコンサートを行う教会が一ページ分まるまる掲載されていた。
「なぁ、おい」
「……」
これには桜庭も少し驚いたようだ。付箋には「桜庭さんがんばってね」と書いてある。誰かが買ってきたのだろう。軽く中身に目を通すと、どうやら人気の結婚式場の特集らしい。全国のスポットを押さえていて、首都圏だとこの教会がやはり人気とのことだ。しかしこれだと、なんか。
「結婚頑張れって意味に見え…おい、そんな怖い顔すんなよ冗談だって!」
「君が馬鹿なことを言うからだろう」
呆れた溜め息をついて俺から雑誌を奪うと、そのままソファの背にもたれて一人で勝手に読み始めてしまう。
「俺も読みてぇんだけど」
「……」
「よ、み、て、え、ん、だ、け、ど」
グイグイとわざと無理に肩をくっつけて覗こうとすると無言のままに押し返される。しばらく抵抗のし合いが続き、軽く疲れてきたところで馬鹿げた気持ちになったのか桜庭が根負けしたらしく、さっきよりも大きな溜め息をついて俺にも見えるように雑誌を見せてくれた。
写真をよく見ると、前に教会を案内してくれた牧師もそこに映っていた。祭壇に立って聖書を持っている。その前には後姿の新郎新婦が並んで立っていた。
永遠を誓う二人。こうやって見ると、やはり場所の効果は大きいのだとひしひし感じる。もう何年も前に友人の結婚式に行ったときも、なんだかまるで別人のようだと思ったくらいだった。ステンドグラスのやわらかく清らかな雰囲気は、そこに訪れた人々全員を照らして包んでいる。
「やっぱり、いいもんだな」
「は?」
「教会での結婚式。俺、見学のあと色々調べたんだけどさ、やっぱあの教会、式場としても元々人気らしくて」
「それはプロデューサーからも聞いた。…よく取れたものだな」
「ほんとになぁ」
雑誌やテレビの効果はかなり大きいのはアイドルである俺たちもよく知っている。目に入ってくるだけでも認知度は跳ね上がるものだ。こんな一面の掲載だ、もし雑誌の販売後だったら場所を押さえられなかったかもしれない。良い機運に恵まれたものだ。
もう一度写真を見る。やはりと言うべきか、誰もいないときと比べても雰囲気は全然違う。きっと結婚式なら祝福の気持ちに満ちているだろうが、コンサートだと緊張感がかなり増しそうだ。あの神秘的な静謐さを思い出す。そこでふと気になって、何気なしに尋ねる。
「桜庭って見学の前にも教会に行ったことはあるのか?」
そのとき――桜庭が浮かべた表情と、教会を見学しているときに席を眺めていたときの顔がカチリと重なった。気づいて、思わず一瞬息を止める。
だけどその影はすぐに鳴りを潜めた。ただ一言、「ある」とだけ答えた桜庭は雑誌を読み進める。会場になる教会はめくられたページに隠れて見えなくなった。
…あ、これは。
さっきタクシーでしみじみと抱いていた懐かしさが胸の奥をかすかに締めつける苦しみに変わっていく。俺たちの間に流れる、誰も口にはしないけれど確かに存在を認識している奇妙な時間。
それこそ、最初の頃はそうだった。桜庭に対して、自分の言葉が及ばない。いがみ合っているときは通じ合えないイラつきに火をつけた。
だけど、桜庭は言葉を出さない、から。大切なことはきちんと伝えてくれるけれど、余計な何かを纏わせるようなことは言わない。分かっているつもり、だった。いや、「つもり」でもない、分かっているんだ。
好奇心なんて軽率なものじゃない。だけど、否定できなかった。桜庭にそんな顔をさせる過去がどういったものなのかを知りたいという気持ちが。過去を詮索されるのは誰だって快いものじゃないのも知っている。それに知らなくたってこの先やっていくのに大きな支障が出るわけじゃない。出会ってから、どんなものにも代え難いほどの時間を過ごしてきたのだから。
だから、…俺の欲はきっと誤っているのかもしれない。締めつけられる胸をなんとかしてほどくように、ゆっくりと呼吸をする。隣にいるのに、なんだか手の届かない場所にいるような気がする桜庭に気づかれませんように。
「…桜庭」
「なんだ」
「結婚のご予定は…だからそんな怖い顔すんなって!」
いつもの調子になんとか軌道修正できて、妙な安心感を覚えた。確かな欲を感じた事実は消えないせいか、その安心が心に生まれたのが、一番さみしいことのような気がした。
