僕のお腹は甘えたさん

 最近になって分かったことがある。僕はどうにも食事を準備するという方面における思考がぱったり死んでしまっているらしい。お母さんの手伝いはするけど、僕ができることなんてせいぜい料理の乗った食器を並べたりそれを洗ったりすることくらいだ。すごく頑張って何かを混ぜたり切ったりする程度で、あとはもう味見しかできない。食べることには365日関心はあるけれど、作るってことに関してはまるで興味が湧かない、というより分からない。だって、作ってくれる人が近くにいるんだもん。食べることばかりに気がいっちゃっているのがお母さんも分かるのか、食事の準備を手伝わせようとはしない。懸命な判断だと思う。
 だからかな。お腹はいつでも空いているはずなのに時々食べるということに対してひどく混乱してしまう瞬間が来ることがある。何か食べようと冷蔵庫を開けて、既製品があればまぁそれでいいけど、食材が見えたところでそこから何をすれば分からないんだ。何か変だよね、って僕自身が一番そう思っている。料理すればいいじゃん、で済む問題がその行動にまでどうやって至ればいいのか本当に、全く分からない。だから北斗くんちの冷蔵庫を開けて、ひんやりとした空間にきちんと収まっているなんだか高そうなチーズや外国の野菜を目にしたところでお腹ばっかりぐうぐう鳴って、身体がちっとも動かないんだ。

 おい翔太、ダラダラしてねぇでちょっとは手伝え。あ? 今日のメニュー? 今日はグリーンカレーだ。自分で作れるか試したかったんだよな。デザートは杏仁豆腐作った。この前マンゴーもらったろ、あれそのまま食べるだけじゃつまんねぇなと思ってさ。…おい、何笑ってるんだよ、こら逃げるな! あとでちゃんと手伝わせるからな。

 あぁ、僕の思考と胃袋をここまで甘やかせた、なんだか怒ったような声が恋しい。色々な料理とデザートで僕はすっかり作ることへの関心が失せてしまったし、あたたかくて美味しいカレーを作ってくれる大きな手を僕はもう知ってしまっている。
 チカチカと眩しいライトを放つ冷蔵庫と向き合いながら、僕はリビングで無表情で雑誌を読んでいるらしい北斗くんに大きな声で呼びかける。

「ねー北斗くんちって冷凍食品とかないのー」
「うーん、無いな」
「僕お腹空いたよー、なんか作ってよー」

 返事はなかった。思った通りだけど、北斗くんもオトナなんだからもうちょっと取り繕ってほしい。お腹が空くと人はイライラするとはよく言うけれど、北斗くんも冬馬くんのグラタンにありつけなくてイライラしているに違いない。いや、原因はもっと他にあるけどさぁ。
 このあと北斗くんが根負けして冬馬くんが思いつきもしないようなお洒落な料理を作ってくれるか、僕が根負けしてお母さんのご飯を食べに帰るかどちらが先か。でも僕はこういう北斗くんと食事をしても楽しくないなと思う。
 服とアクセサリーはいっぱいあるけど、それ以外のものがなんだか少ない北斗くんの部屋は誰かが喋らないとビックリするくらい静かだ。そして今の北斗くんはあまり喋りたくない気分だから、どんなに美味しい料理でも味がなくなったみたいになる。僕は北斗くんが好きで、北斗くんの作るお洒落でなんか名前が長い料理だって好きで、二人で食べるご飯もなんだか特別っぽくて好きなのに、何か変だよね、ってその理由は気づいている。北斗くんのキッチン棚に並べてある食器には3セット分用意されているものがあった。それぞれ赤と青と黄色のお花の上品な絵がフチに描かれているもので、それは3セット全部使われて初めて意味を持つことを無言で主張されている気がした。

「北斗くん、僕帰るね」

 意図せず声のテンションがやや低くなってしまった。北斗くんは雑誌から顔をあげて見送ろうと立ちあがったけれど、僕はいいよと断って自分のカバンを肩にかける。綺麗に整えられた眉毛が下がって、北斗くんは「ごめん」とだけ言った。

「大丈夫だよ」

 言ってから何が大丈夫なのか自分でもよく分からないなと思ったけれど、僕はそれだけ言って北斗くんの家から出ていった。外はもう夕焼けで、今から自分ちに帰る頃にはお母さんのご飯が出来上がっているだろう。いや、でも今日は冬馬くんちで食べるって言っちゃったから突然帰ってきたら連絡はちゃんとしなさいと怒られるかもしれないし、まず自分の分のご飯がないかもしれない。色々考えているうちに、ふいにお腹がぐうと鳴った。

「お腹すいたなぁ」

 それだけ呟いて僕は帰り道を歩く。お腹がすいてちゃ帰り道もこうも気が乗らない。もう何もかも面倒で、僕は冬馬くんちに行こうかと一瞬考えた。もしかしたら冬馬くんの予告したとおりグラタンがあるかもしれない。だけどすぐにやめようという結論になる。冬馬くんちに行ったところで北斗くんちにいたときと全く同じことが起きるに決まっているのを僕は知っていた。
 ファーストフードしかないのかな、それを考えるとちょっとだけげんなりする。ファーストフードは今も昔も好きだけど、僕の思考と舌はすっかり肥えて手作りのものに慣れてしまっているのだ。でも今は最前の選択かもしれない。僕は頭の中でどのセットを注文しようか考える。
 北斗くんは今日は何を食べるのかな、冬馬くんは一人でグラタンを食べるつもりなんだろうか。なんだか色々なことをぼんやりと考えるうちにちょっと喉が渇いた。僕は冬馬くんと北斗くんとご飯を食べているとき、水が飲みたいという欲求が冬馬くんちの冷蔵庫にいつも置いてある麦茶が飲みたいという意味になっていることに気づいた。三人での食事がバラバラになるだけで、僕がすっかり甘やかされた身体になったことに気づかされる。こうなっちゃったのは冬馬くんのお得意のカレーのせいかな、ミートソーススパゲッティのせいかな、メロンゼリーのせいかな、それとも、もう冬馬の手料理以外食べたくないなと冗談めかして言う北斗くんの笑顔のせいかな。

 早く仲直りすればいいじゃん。まぁでもそれは二人とも思っていることだろう。甘やかされた僕の思考はどうも胃袋に直結しているらしく、ほら北斗も翔太も手伝えと言いながら食材を切る冬馬くんの手と、冬馬くんちのキッチンに慣れきった北斗くんが料理をお皿に盛りつけるところを思い浮かべるだけでぐうぐう鳴り響いた。

《了》