一番近い幸せ - 1/2

 この業界に限って言えば、忙しさというものは大きくなればなるほど良いものなのだろう。少なくとも、忘れ去られるなんてことよりかは遥かにマシだ。待ってくれている人々が自分の行く先に大勢いると考えると、冬馬はいてもたってもいられなくなる。
 早くあの、眩しいほどのライトや耳鳴りがするほどの歓声、それらの素晴らしいものが合わさってキラキラと煌めくステージに立ちたい。自分の名を呼んでくれるファンのことを思うだけで鼓動が高鳴る。だから――多少の無理は歓迎した。疲れたな、と北斗や翔太と言いあうことが幸せの一つでもあった。休みたい、なんて言っている場合ではない。この身体をどこまでも動かして、もっと先へ上へと昇りつめたい。
 その気持ちは事務所が移ってからも変わらず、むしろ野心は燃えるように身体の中で燻っている。一度どん底を経験した身は飢えが満たされること未だに覚えない。最近、時間はかかったもののようやく増えてきた仕事のことを思うだけで、冬馬はわくわくした。仕事を終えたあとの疲労感は時にひとたまりもないものの、それがどこか心地良い。また無理をする時期が来るのか――だけど、それが嬉しい。冬馬は毎日に喜びを見出していた。

 ただ、仕事が忙しいと自分の時間は思うように取れなくなる。しかしそれは割り切ればいいだけのこと。いやでも、と冬馬は頭を振り、眉間に皺を寄せる。いつも翔太に「怖い」と揶揄される表情だ。冬馬は納得できずにいた――いくらなんでも納得できないと、机の上で拳を握りしめて、帰る準備を着々と進める細身の人物を睨む。
「なぁ、北斗…」
「何、って冬馬、そんな怖い顔してどうした?」
「どーしたもこーしたもねぇよ!いつも飯ぐらい食ってから帰れっつってんだろ!」
 だん、と派手な音が鳴った。机に打ちつけた拳が思ったよりも痛くて冬馬はさらに顔を顰める。横にいた翔太が、用意されていた弁当を食べながら能天気な調子で「どうしたの冬馬くん?」と冬馬の顔色を窺った。北斗は翔太の食べていた弁当にチラリと目をやると、困ったように笑って首を振る。
「いや、俺はいい。前も言ったけど、仕事終わりは疲れすぎてて食欲ないんだ。家に帰ったらちゃんと食べてるから大丈夫だよ」
「嘘つけよ…」
 呻くような声と共に、冬馬は北斗の身体の線を視線で辿る。移籍してからというものの、北斗は明らかに痩せつつある、それも見ているこちらが焦るほどの急なペースで。筋トレは欠かしていないところから、単純に脂肪の量が落ちているのだろう。綺麗に整った北斗の顔に差す、白くて少し青い影――961プロに所属していたときにはあまり見なかったような色だ。冬馬は歯噛みする。この頃、仕事中に提供される弁当を食べている北斗の姿を見ない。最後に何かを食べている姿を見たのは料理のレポート番組であるうえ、カメラが回らなくなった瞬間に手をつけるのをやめてしまった。家に帰ってから食べると言うものの、この調子では寝るまでに何一つ口に入れてないことだろう。
 こんなの良いはずがないと冬馬は苛立つ。しかし食べない理由を何度尋ねても苦笑と共に「仕事終わりは疲れるから」の一辺倒だ。そのため食事に誘っても断られてしまう。しかし冬馬が自ら原因を考えてみてもあまりぴったりくるものが思いつかない、から冬馬は余計悔しくなる。もったいないから食えという言い訳は、食べ盛りの翔太が北斗の分まであっけなく平らげてしまうためにうまいこと通用しない。どうして北斗は何も食べないのだろうか。
「なぁ北斗、お前ここに来てからかなり痩せてんの自覚ないのか? このままじゃマジで仕事中にぶっ倒れちまうぞ」
「痩せてる、ねぇ…仕事が忙しくなってきたからね。いいことじゃないのか。それに太るよりかはいいだろ?」
「ちがっ、俺が言いたいのはそういうことじゃねーよ!」
「大丈夫だよ、栄養とかは家帰ればサプリメントとかもあるし」
「だぁーっもうちげぇって!」
 要は食事を摂らないその状態がはたから見て不健康であると言いたいのだが、冬馬にはうまい言葉が思いつかず、湧きあがる苛立ちと歯痒さのままに頭を掻きむしった。北斗は顔から笑みを消し、やれやれと困ったように首を横に振る。その態度さえ今の冬馬の神経を逆撫でするのだ。再び冬馬が感情任せの怒鳴り声をあげようとしたとき、再び横から翔太ののんびりした声がした。
「北斗くん、このお弁当食べちゃっていい?」
「あぁ、いいよ」
「あっおい翔太――」
 いただきまーす。
 間延びした声に冬馬はいよいよ溜め息をついて頭を抱えた。北斗はそんな様子を見届けてから、分からないほどの薄い笑みを浮かべて背を向ける。冬馬はまだ話が終わっていないと口を開こうとしたが、その痩せた広い背を見て言葉を失う。何を言っても駄目なのであれば、一体自分に何ができるのだろう。消化しきれない気持ちが喉でつっかかって腹に戻っていく。ちくしょう。出てきた言葉はそれだけで、色々な感情が籠っているにも関わらず、とても小さな声になった。パタン、乾いた音をたててドアが閉まる。生まれてしまった居心地の悪い空虚に冬馬はとうとう気持ちのやり場を失ってしまった。

 大きな溜め息をついて椅子に座り込む。仕事をこなしたときよりも遥かに疲れているのはなぜだろうか。視線を動かすと、自分の分の弁当と、翔太が既に空にした弁当箱が入った。意識すると、自分がひどく腹が減っていることにようやく気づく。北斗はこの感覚を味わってないのだろうか。疑問とやりきれなさを頭に浮かべながらも冬馬は弁当箱を開いた。
「冬馬くん、今日のお弁当も美味しいよ」
「…そーかよ」
「でも僕、冬馬くんが前に作ってくれたカレーが食べたいなぁ」
「はぁ? なんだよそりゃ…」
 褒めてくれているのは分かるが如何せん発言に脈絡がない。怪訝な表情を浮かべながら冬馬は弁当に視線をやる。以前、ロケ弁だけはせめて美味しいものを、とプロデューサーが契約の交渉を結ぶためにあらゆる弁当屋を練り歩いた、という話を同事務所のアイドルから聞いた。おかげで弁当の中身は事務所の知名度にそぐわないほどクオリティの高いものとなっている。目に入るのは醤油と出汁で旨く煮つけられたメインの肉。野菜のおひたしもついており、デザートにはカップに入った一口大のゼリーが添えられている。外した弁当の蓋には弁当屋の名前が大きく印刷されていた。
 いただきます。挨拶をしてから冬馬は割り箸を割りご飯から手をつける。ここの弁当は以前のロケでも食べたことがあった。確かに美味しいと感じる。そこはプロデューサーに感謝するべきであろう。しかし――やはり出来立ての料理には敵わないと冬馬は冷えたご飯を咀嚼しながらつくづく思う。冬馬は料理が好きだった。材料を選別して、その材料に手を加えながら、焼く、煮る、蒸すなどの様々な工程を経て一つの料理を作るというのは冬馬にとってはやりがいがあった。

 ロケ弁にも美味しい不味いの差があるのは分かるし、今食べているものは美味しいと言えるものだ。だけど冬馬にとって既製品とできたて、特に自分で作った料理は別物だった。もぐもぐと咀嚼しながら、冬馬は料理という単語にあることを思いつく。
「北斗、俺が作ったものを食べなかったことはねぇんだよな…」
「だって冬馬くんのご飯美味しいもん。僕なら具合悪くても食べちゃうなぁ」
 食べ盛りの翔太は既に二個目の弁当を平らげつつある。翔太が体調を崩したところなど見たことどころか聞いたこともない冬馬は訝しげに翔太を見つつ、頭の中で北斗の細い身体のラインを思い返していた。何なら食べるだろう、俺は何を作ろう。今の北斗なら何を食べるだろうか――。考え込むと周りが見えなくなると同時に顔が険しくなるのが冬馬の悪い癖だ。咀嚼を続けながら宙を睨んでいるそんな冬馬を翔太は面白そうに見つめる。しかしあまりにいつまで経っても咀嚼を続けているものだから、翔太は手を合わせて食事を終えたあと冬馬の額を指で弾いた。
「ってぇ! 翔太何すんだよ!」
「冬馬くんいつまで食べてるの? 僕も早く帰りたいんだけど」
「えっあぁ、…ってお前、帰りたかったら先に帰ってもいいんだぞ」
 思い出したかのようにものを飲みこんだあと、冬馬は再び考えに耽ろうと目を細めたところを見て翔太は大袈裟に驚いてみせて席を立つ。
「何言ってんの冬馬くん! 北斗くんにご飯作るんでしょ?」
「なっ、翔太、別に作るなんて一言も言ってな――」
「北斗くんなんで食べないんだろうね? お腹でも痛いのかな? だったらうどんとかスープとかが良いんじゃないかなぁ」
 ダイエットする必要全然ないと思うけど、もししてるみたいならお豆腐みたいにヘルシーなものとか、むしろ太らせるためにトンカツとか揚げちゃえば? 料理名を指折り、次々挙げはじめた翔太を冬馬は目を見開いて見つめる。翔太はつくづく周りを自分のペースに巻き込む天才であることを再認識してパチパチと瞬きする。しかし翔太なりに真面目に考えてくれているのだろうか、考えている目は真面目そのものに見える。冬馬も気を改めて同じく思考を巡らせることにした。
 北斗は疲れていて食べられないと言う。冬馬にもその感覚は分かるが、疲れは時間が経てば少しは癒えるもので、癒えれば思い出したように腹が鳴るのだ。しかしそれでも食べていないあたり、今の北斗には食事の優先順位が低いように見える。身体は資本だ、そんなことではきっとプロデューサーも困るだろう。――具体的に何を作ろうかはまだ曖昧だったものの、考えるうちにどんな料理にするかの方向性は決まった。冬馬は急いで残り少なくなっていた弁当の中身を口の中へ掻き込み、ごくりと飲みこんでから手を合わせる。
「ごちそうさま。おい翔太、どういうのを作るのかはもう決めたからもういいぞ」
「へー何作るの?」
「スプーンかフォーク一つで食えるもの。夜、北斗が空いてたら家に誘って食わせるよ。何があるかは帰りながら考える」
「そうなんだ。僕は北斗くんの二倍の量でいいよ」
「あぁ分かった…ってお前に作るなんて一言も言ってねぇだろ!」
 昼ご飯に弁当二個分食べ、さらにいつもの翔太ならおやつにスパゲッティかカップ麺食べたいなどと言い出すはずだ。その上で夜に北斗の二倍の量の食事を欲すると言うのだ。もう充分食ってるだろと冬馬が叱ろうとすると、翔太が眉を寄せ訴えるような目つきで冬馬を見あげている。それだけで冬馬の動きは鈍くなったが、翔太は甘えるように冬馬の服の裾を掴んで懇願する。
「お願い冬馬くん! 僕、冬馬くんの作るご飯ほんと好きなんだよ! それに北斗くんに作るなら僕だって手伝うからさぁ」
 ね? と喉を鳴らすような高い声を出されれば、冬馬に断る術などなかった。今回だけだからな、と言い捨てる言葉は少しつっかえた。翔太はオーバーに喜んで冬馬に抱きつく。しかしこのまま冬馬についていけば冬馬は勝手に翔太の分まで作ることを翔太は知っていた。その上でねだったが、冬馬はやはり了解したのだった。翔太は冬馬の少し広い背中に頬をすりよせる。我らがリーダーは、今日は何を作ってくれるのだろう。