ホワイト・サイレンス

 いつだって、気づくのは自分のほうが先だった。

 ぽっかりと欠けた大聖堂の天井から差す陽射しは透き通る眩しさで、照らされた瓦礫は、争いの凄惨さを置いてけぼりにして、ただ無造作に積まれている。この戦乱の中では施設内の整理などとても追いつかないのだ。
 男は取り返しのつかない欠片たちをじっと見つめて動かない。昔は、何かの使命を負っているようにいつもまっすぐ伸ばされていた背がときどき無性に憎たらしかった。
 しかし今では俯いてばかりで丸まったうなじに、あの頃以上の苛立ちを抑えきれず、フェリクスはその場から動きそうにないディミトリへ大股で近づいた。
「おい、猪」
「……」
 生気はまるでないのに、抱えている憎しみを隠そうともしないせいで人形とも思えない、得体の知れない存在となった彼は口を重く閉ざしたままだ。フェリクスは聞こえるように舌打ちをし、言葉を続ける。
「聞こえんのか」
「……」
「はっ、人の斬り方を覚えた代わりに喋り方は忘れたようだな」
 嘲笑ってみせて、ようやくディミトリはかすかに首を動かしフェリクスへ視線をやった。しかしそれも刹那で、すぐに視線を瓦礫へ戻す。
 ディミトリは瓦礫ではなく、もっと別の何かを見ているように思えてならなかった。右眼は塞がれ、残された碧眼は陽に照らされても鈍く、まるで濁った湖の底だ。これなら辛辣な口をきくたびに、困ったように眉尻を下げるばかりの昔のほうがよほどマシだった。
「木偶でもあるまいし…何か答えろ、おい!」
「…触るな」
 苛立ちのままに、フェリクスはとうとうディミトリの肩を掴んで揺さぶる。地獄の奥深くから湧きあがる声は今まで聞いたこともなくて、フェリクスは一瞬動揺に目を少し見開いた。しかし肩から手を離そうとはしない。痛がって当然なほど指先に力を籠めてやる。
「その辛気臭い顔…何様のつもりだ」
「お前には関係ない」
「大ありだ。俺を腹立たせているという意味でな」
 眉間に険しい皺を寄せ、手がかすかに震えるほど力任せに握る。
 最後にディミトリをまともに見たのは士官学校が最後だ。そこから長い年月を経て、人を斬ったぶんだけ身体が確かに逞しくなっているようなのが尚のこと腹立たしかった。訓練でみるみるうちに洗練されていった力が、ただの暴力に堕してしまったようで。
「貴様…もし敵だったら斬っているところだぞ」
 半ば衝動的に出た言葉だったが、フェリクスの本心には違いなかった。旧友と呼べる人間が、救いのない果てまで行ってしまい、伸ばした手も何もかも届かなくなってしまったら――ひとりの剣士として、斬るだけだろう。
 ディミトリは目の色も変えずにただ口角をゆがませるように笑うと、肩にしがみついているフェリクスの手を掴んだ。馬鹿力なのは、本当に相変わらずだ。痛みに顔をしかめ仕方なく少し距離を取ると、彼を斬る道すらありかねない剣を収めた鞘がカチャリと音をたてた。
「そうか。なら俺も同じようにするだけだ」
 薙ぐようにフェリクスの手を振り払う。掴まれたフェリクスの手の甲にはくっきりとした痕がついていた。
「敵は全員…殺す。それでも死んでいった者たちへの報いに足りないくらいだ」
 ディミトリを見ていると、フェリクスの瞼に焼きついて離れてくれない、身体ひとつすら戻って来なかったグレンの姿が嫌でも呼び起こされた。
 騎士としての誇り、死者への報い、復讐。形のないものに囚われるのはごめんだ。
「…救えんな」
 毒舌のひとつすら出てこなくなり、フェリクスは力なく首を振ってディミトリに背を向けた。ディミトリは彼の後ろ姿を少しの間だけ見つめる。
 食事や訓練、戦闘の場において幾度となくフェリクスから辛辣な言葉を投げかけられた。その中には、今のような怒気を孕んだ顔以外にも確かにいろいろな表情を見せられたはずだ。
 しかし、思い出そうにも頭の中は薄暗い靄ですぐいっぱいになり、フェリクスへ何かを言いかける前に、置き去りにされた者たちの怨念がディミトリの口を塞いでいく。
「……」
 そのまま遠ざかっていくフェリクスを呼び止めることなどない。ディミトリはただ、また元のようにじっと見えない一点を見つめるだけだ。耳の奥から消えてくれない彼らの声を、確かに聞き届けながら。

 寮へ戻る途中、はらりと鼻の先へ何かが降りおりてきた。フェリクスが陽に顔をしかめながら見上げると、冬を実感させる白い結晶がひとつ、ふたつと瞬く間に増えていく。
 ファーガスほどではないが、ガルグ=マク大修道院も星辰の節には雪が積もり、生徒たちで雪かきをしたこともあった。その中で雪遊びに興ずる者なんかもいて、フェリクスは何が楽しいのかまるでわからなかったが、ディミトリはそんな者たちの様子も微笑みながら見つめていた。
 その頃と比べると、今の大修道院は抜け殻そのものだ。千年祭の約束で集まったかつての級友と、わずかに残った臣下、そしてそれまで行方の知れなかった教師が復興に励んでいるが、どれだけ時間が掛かるだろう。
 ここで学びを共にした者たちは、今では剣を交わす相手として外で待ち受けているはずだ。過去に縛られて復讐に目の眩んでいるディミトリと話したせいだろうか、今日はいやに昔の記憶が蘇る。
「…ックソ」
 奥歯を噛みしめながらフェリクスは歩を早めた。目の前にちらつく雪が芝生を染めてゆくのが過去に見た光景と重なり、ただ不快だった。
 これではディミトリに示しがつかない。自分までもがいなくなった者へ耳を傾けることなどあってはならない。ディミトリに握られた手の甲が冷えてズキズキと痛みを増していく。
 フェリクスは一度立ち止まり、愛刀へ視線をやる。
 この剣でディミトリに別の未来を見せてやることなどできるだろうか。言いたいことはたくさんあるはずなのに、そのどれもが通用しないせいで良い展望など見込めない。
 先ほどはああ言ったが、彼を斬る結末などあっていいはずがない。ただ、何もできないのだけが歯がゆくて、悔しくてたまらないだけで。
 再び歩き始める。立ち止まっている場合ではないのだけははっきりとわかっていた。

 ディミトリが腹の内に何を抱えているかよく見えた初陣の日も、凍えるように寒かった。
 雪に血しぶきが舞うと、歌劇の小道具のようにわざとらしく鮮明に赤が映える。しかしディミトリの浴びた返り血は既にさまざまな赤色に染まって、褐色に変わりつつあるものなどで塗り重ねられていた。
 フェリクスも似たような姿ではあったが、それでもあのときのディミトリを見たときに気づいてしまったのだ。本人が意識しているかもわからないほどディミトリの内に膨らむ憎悪と、もう互いがただの幼馴染同士ではなく、ディミトリが自分を置き去りにして一線先へ進んだことに。
 あのとき、何の言葉も出てこなかった。フェリクスは絶句したまま、身体中を血に染めて、死体の転がる平野でしゃんと背を伸ばして佇んでいたディミトリの後ろ姿をただじっと見つめていた。
 視線を逸らそうにもできない。幼い頃からよく知るはずの友人は、振り返ってフェリクスに気づくと――いつも通りの穏和さで微笑み、彼をねぎらった。見慣れたはずの、少し人好しすぎる部分のあるディミトリが夕焼けの逆光に照らされたあの瞬間からめっきり別人に見えた。

 あのとき何ひとつ掛けてやれなかった言葉の代わりに、フェリクスは棘を含んだ口のきき方を重ねていった。
 そのたびにディミトリはただ肯定するだけか、時には怒って言い返してきたものの、そのあとピシャリと跳ね返してくるフェリクスの反論にうなだれるだけだった。
 本心では、もっと本気で怒ってほしかったのかもしれない。そうして「違う」と否定されるのを待ち望んでいた自分が、本当は一番惨めだ。似合わぬ自嘲の笑みを浮かべ、フェリクスはたちまち白く染められていく大修道院の敷地を歩く。
 自分だけが視力の良くなった心地であったが、シルヴァンもイングリットも、そして彼の従者であるドゥドゥーもみんな、彼らなりにディミトリを気遣っていた。
 フェリクスはもちろんそれらに気づいていた。あの日からディミトリがどうか、これ以上変わらないかを見てやらなければならなかった。ディミトリの持つ人望の成す周囲の優しさは確かにディミトリを支え、そしてそれ以上彼を軟化させる日は終ぞ来なかった。
 最後にまともに彼を見たのは五年前だ。それからディミトリが伯父のリュファスを殺害したという話が王国中に広がったときには再会など絶望的な状態で、処刑が確定されたあとはなるべく考えないようにしていた。
 あのときはディミトリが生きているなどとはフェリクスは思いたくなかった。シルヴァンは『あんな馬鹿力のアイツが簡単に死ぬとは思えない』なんて悲しそうに冗談を言うたびに、亡者への後悔がグレンに次いで生まれるのが恐ろしく、半ばヤケにシルヴァンを叱責した。
 しかし何の因果か、はたまたかつての級友たちの縋るような望みが届いたのか、ディミトリは生きていた。地べたを這いずり、片目を失くし、義に厚いかつての従者を喪ってさえも生き延びていた。
 この失われた五年間、彼にどんなことを言ってやれたのか。亡き者の姿を捉え、声を聞くディミトリを見ると考えない日などない。しかし、もしもの話をフェリクスは好まない。確かなものは剣と己の身体だけだ。
 だから今は、ますます血を浴びて獣へと変わりつつあるディミトリが亡者に引きずられるのを繋ぐためにも、フェリクスは剣を振るう。その先に何が待ち構えているかなどわかりもせずに。
「――…」
 フェリクスの伝えたい胸の内は形にまではならず、白く冷えた息へと変わり、そして消えていく。

《了》