碧落のマグノリア - 9/34

 ガタン。
 ――物同士がぶつかったような、大きな音がした。
 この家に自分以外の誰かがいる。そのことを思い出したカミルは、日が昇って間もない頃に目覚めてベッドを飛び出した。

 隣の客室のドアは開きっぱなしで、ベッドは抜け殻だ。顔からサッと血の気が引く音が本当に聞こえた気がした。はやる呼吸もそのままにカミルはリビングへ駆ける。
 幸いにも男はまだこの家にいた。ダイニングテーブルを支えに、玄関まで足を引きずりながらも歩こうとしているらしい。なんてひどい無茶を――カミルは先回りして男の前に立って制止した。

「動かないでとあれだけ言ったのが分からなかったんですか!?」

 起き抜けに大声を張り上げたせいで、身体に衝撃が来て一瞬強い眩暈を覚えた。
 くらくらした視界の中で、カミルは目の前の彼を捉える。昨晩に差した点滴は見当たらないが、それもそのはずだ。腕には無理やり針を抜いた跡が小さく、そしてはっきりとついていて、まだ乾いていない血がてらてらと光っていた。
 そこまでしてなぜ。カミルは怒りとショックで言葉を失うが、男は彼の怒りなど意に介さず、再び敵意を露わにした目で睨みつける。

「知るか、オレは帰る」
「帰るって、あの山へ?」
「同胞の元へ行かなければならない」

 人間への憎しみを差し引いてもこの態度だ。彼が一刻も早く仲間のいるところへ行きたいのは痛いほど伝わった。
 ただ、それはほとんど不可能だろう。窓を打つ雨の音を聞きながらカミルは首を振る。

「いえ、万が一歩けたとしても無理です。トーランドは今時期どこも雨季に入っているのを知りませんか? あの山だって土砂崩れしているかもしれない」
「土砂崩れ……」

 その言葉を聞いた男は青白い顔をますます悪くして口をつぐんだ。血色のない唇がかすかに震えている。かと思えば、動かない足を引きずって弱々しい腕でカミルを押しのけようとした。

「なら、行かなければ……」
「どうしてそこまで……知り合いがいるのですか?」
「……」

 既に魔法遣いであることは割れていると分かっていても、男はその話題になるとやはり閉口した。カミルとは目を合わせようとせず、逸らした横顔には魔法遣いの証である赤い紋様が、変わらずヒビのようにありありと浮かんでいる。
 彼を落ち着かせるためにもカミルは努めて穏やかな声音で説得を試みる。

「大丈夫です。あなたを見つけたあと、この街の自警団に連絡して山を巡回してもらいましたが、怪我人や迷い人などは一人もいなかったそうです」

 肩を握っていた手を手首へと滑らせて、やわらかく握りこむ。

「人間の側にいるのは嫌だと思います。でも、今のあなたは安静にしていなければ危険な状態です。ここはどうか言うことを聞いて」

 自分より少し高いところにある目と視線を合わせて、カミルは懇願した。
 彼を引き留めなければならないという使命感と、一番言いたいことをしっかり伝えるために。

「私は医者です。あなたを傷つけるようなことは絶対にしないと誓います。あなたを、治したいんです」

 疲労と緊張で冷え切った手首に、自分の体温を移すようにカミルは握る手に力を込めた。
 理不尽に罵られようが、点滴を勝手に抜かれようが、こんなボロボロの患者を放っておけるはずがない。例え相手が自分に対して一切の信用がなくても、カミルは身を尽くして治療に励むだけだ。
 自分を見下ろす、長い前髪から覗く深い紫を宿した双眼。
 そこから初めて、張り詰めた怒りのようなものが緩んだ気がした。相手を射貫く光がふっと弱々しくなると、男はふらついてよろけた。

「だ、大丈夫ですか」

 慌てて腕を伸ばす前に、男がカミルの肩口に額を乗せる方が先だった。長い黒髪が耳のあたりをくすぐる感覚に、何が起きたか一瞬混乱したカミルの身体が固まる。
 しかしそのままずるりと男の身体が崩れそうになったので、カミルは反射で背に腕を回した。見かけにそぐわずやや広いものの、痩せて浮き出た肩甲骨がシャツ越しでも分かる冷えた背中だった。

「……くっ」

 苦しそうな喘鳴がカミルの耳元で響く。こうして起き上がってはすぐに限界を迎える彼を責める気にはとてもなれず、カミルはなんとか姿勢を持ち直し、彼の腕を自分の首にくぐらせて肩を組んだ。身体同士がかなり接触しているものの、振りほどかれるような動作はない。

「やはりベッドまで背負いましょうか」
「いい。歩ける」

 短く返事をした男の方から歩き出したので、カミルはその身を案じながらも歩を合わせる。
 折れているだろう右足は包帯と添え木で固定しているものの、そのままではかなり痛いはずだ。カミルは何か声をかけようと口を開く。しかし、その前に男から「何もするな」と先回りしたように制されて面食らう。

「水分は取りましたか? 点滴は……」
「いらない。オレたちに人間の薬は不要だ」

 どういう理屈なのか理解できないものの、魔法遣いの肉体が人間とどう差異があるのか知らないカミルはそれ以上の言及ができなかった。
 経口補水液すら不要ならば、炎症止めの軟膏を塗る応急処置もしてはならない処置だったのかもしれない。男の身体に何かダメージがいっていないか、カミルは急に不安になって冷や汗をかく。

「あの、怪我以外に苦しいところはありますか? あなたの身体に消毒などさまざまな応急処置をしたのですが……」

 舌打ちや罵声の一つでも返ってくるかと予想していたが、相手から返ってきたのは否定の仕草のどれでもなかった。

「――花を……」
「はな?」
「花をテーブルに置いてくれ。花瓶もなくていい、そのままで……それだけ頼む」

 その言葉を伝えたが最後、男はすっかり黙ってしまった。横目で表情を確認すると、眉間の皴は依然として刻まれており、疲労による眠気で目は開いているのがやっとのように見える。
 身体を動かすのもやっとの状態らしいから、あまり話しかけるのも酷かと判断したカミルも黙って前を向き客室まで男を運ぶことに専念する。

(花って、あの植物の……?)

 一体どういう理由なのかまるで見当がつかず、疑問符ばかり頭に浮かぶ。しかし、今は彼の言うことに従いながら容態を見た方が良さそうだ。
 病人の側に花を添えるなんて、病室にお見舞いに行くときのようだ。魔法遣いにもそのような習慣があるのだろうか。カミルは内心首を傾げつつ、どの花がいいだろうかと考え始めていた。
 花ならたくさんある。得意のハーブも、カミルの庭には。心身が傷ついて疲弊しきっている彼の側に添えるなら、一体何がいいだろう。