碧落のマグノリア - 8/34

 ブランケットをかけ直したカミルは、床に散ったグラスの細かい欠片と水を片付けるために一旦部屋を出る。汗を拭いたタオルを胸の前でぎゅっと握りしめて、動悸を鎮めるのにしばし時間を要した。
 頬に浮かぶ赤い紋様、人間生来の色とは思えないほど鮮やかな紫の瞳、そして自身を「人間」と罵倒するあの声音と表情。

 間違いない、彼は「魔法遣い」だ。
 数百年前に最後の一族がいなくなり、絶滅したとされる――。

(なぜこんなところに……そもそもまだ生きていたのか?)

 未だにざわつく胸を無視して、カミルは物置から箒とちりとり、そして乾いた雑巾を持ち出して客室へ戻った。入る前にノックをしたものの、男はふたたび眠りに就いたらしく、静寂しか返ってこなかった。
 濡れた床を拭き、なるべく音を立てないように床を掃く。男は寝息こそおとなしいものの、眉間に険しい皴を刻みながら額に汗を浮かべている。カミルがそっと指先で額に触れると、ここへ運んできたときと同じくらい熱い。
 意識が覚醒した今、身体中を走る痛みを自覚せざるを得ないだろう。考えるだけで痛ましくて、カミルは眉尻を下げた心配そうな表情で彼を見下ろした。

「……ごめんなさい」

 そんな言葉がおのずと口からこぼれた。頭に浮かんだ二つのことについて、彼は良心の呵責からそう呟かずにはいられなかった。
 一つ目は、魔法遣いについて。彼の一族が絶滅した原因は、自身の知識が正しければ「人間」であるはずだから。
 自分が謝っても仕方のないことなのだが、先ほどの男の苛烈な態度を思い出すと自分の胸まで締めつけられる。
 二つ目は――彼は客室を出て片付けに使った道具をしまうと、リビングに置いてあるランタンを灯して、本日は店じまいした診療所へと向かう。
 鎮痛剤のことを口にしたとき、彼は「そんなものを入れるな」とはっきり拒絶した。しかし丸一日眠り続けて、栄養の足りていない状態では衰弱具合は加速してしまう。
 薬品置き場から点滴用具一式と経口補水液のパックを取り出して彼の元へ急ぐ。せめて点滴越しでも水分補給はしてもらわなければ危険な状態だ。

「これは君の身体にもきっと必要なものです。許してください」

 意識のないところにそう声をかけるのは卑怯だろうか。悩ましいカミルはしかし、淀みない動作で男の血管を確認したあとに点滴針を刺した。腕時計を見ながら点滴を落としていく間隔を調整して、彼の身体に人間と同じ濃度の水分を流し込んでいく。
 男の抱く人間への憎悪を真っ向から食らったものの、カミルは医者としての行動を選んだ。彼の命が救われて回復に向かうのであればこの後、どんなに恨まれてもかまわない。傷ついた相手が目の前にいるのであれば、助けるべく尽力するのがカミルの医者としての信条だ。
 彼が覚醒してからようやく事が一旦落ち着いて、カミルは客室を出たあとドアに背をつけてずるずると膝から力を抜かせて、その場にしゃがみ込む。
 廊下の飾り窓から差し込む月光はほのかに明るい。まだ夜は長いが、なんだかひどく疲れた。カミルは長い溜め息を吐きだしてしばらく放心したままその場でぼんやり過ごす。

 暴れる患者の対応なんて何度も経験してきた。あの男よりひどい暴言をカミルに吐いた者だっている。
 しかし、彼は――魔法遣いは、今までの患者とはわけが違う。人間への憎しみなどきっと計り知れないほど募らせているはずだ。トーランドとキースタニアが互いにいがみ合っているのなんて比にならないだろう。
 それほど魔法遣いの歴史は長く深い。誰かと誰かが傷つけあうのは、時間を経たところでこうも禍根を残す事実がカミルにとっては耐えがたく苦しい。

「……はぁ」

 眼鏡を外して目頭をぐりぐりと押さえると、カミルは立ち上がる。クラウディアの忠告もあり、彼を家へ連れ帰った日以上に過酷な一日だったが、明日も診療所をいつも通り開くために自身が休まなければならない。
 リビングに備え付けのキッチンに立ち、棚に並んでいる缶のうち一つを取り出して開ける。カモミールのやわらかな香りが鼻をくすぐり、それだけでカミルの張り詰めた心は少しほどける。
 好きなハーブティーを飲んで、ゆっくりとぬるい湯に浸かる。医者になってからカミルが大事にしているルーティーンだ。何かがあった日だからこそ、この習慣を守る。いろいろな事が始まったばかりで波乱の前兆を感じつつ、カミルは気を取り直してポットに水を注いだ。