碧落のマグノリア - 7/34

 午後は患者の入りはいつも通りで、カミルは定時に診療所を閉めた。
 時刻は六時半を示している。外はすっかり真っ暗だ。片付けを終えて鍵を閉めたカミルは自宅に続く階段を登る。

「ただいま」

 幼少期から染みついた癖で帰宅の挨拶をしながら玄関を開けると、向こうからガシャンと何かが割れるような音がした。

(――客室だ!)

 カミルは薄い外套を羽織ったまま大急ぎで駆けつける。あの患者が目を覚ましたのだろうか。

「どうしましたか!?」

 勢いよくドアを開けると、ベッドから身体を起こしている患者と目が合った。
 ゆるく波打った漆黒の髪は背中を覆うほど長い。顔を隠すように伸びている前髪の隙間から、スミレよりもずっと濃い、鮮やかな紫色をした瞳がこちらを見ていた。
 ヒビのような頬の赤い紋様も、顔色の悪さも見つけたときと変わらないが、初めて目の当たりにする意志の強い光を宿した双眼に射抜かれて、カミルは一瞬言葉を失う。

「なんで人間が……」

 青年は顔をしかめてカミルを睨む。久しぶりに出したからか掠れているが、程よい低さを持った若い声だった。
 その言葉にカミルはハッと我に返ると、先ほどの音の正体を探る。すると、彼のベッドの傍らで水を入れていたグラスが割れているのに気づいた。
 彼がこれ以上怪我をするといけない。グラスの大きな破片を拾い上げつつカミルは言葉を紡ぐ。

「あなたはここから少し離れたところにある山で倒れていたんです」
「なんだと?」
「あの日は大雨で、きっと足を滑らせたんだと思います。ひどい怪我で――」

 そこまで説明したところで、青年は大きく息を飲んだ。カミルが着せたコットンシャツの袖をめくると、血色のない白い唇をわななかせる。

「人間がオレに触れただと……」
「このままでは化膿の恐れもありました。炎症を抑えるために」
「余計なお世話だっ!」

 衰弱した身体から出ているとは思えないような怒声を浴びせられて、カミルは思わず手のガラス片を落としそうになる。
 顔をあげると、険しい表情でこちらを見下ろす彼の目には憎しみがありありと浮かんでいた。
 息も荒く、熱のせいかショックのせいか、そのどちらもあってか額には汗の粒が浮かんでいる。カミルは立ち上がり、青年を落ち着かせようとした。

「放っておいたらどうなっていたか分からない状況だったんです」
「知るか。オレは行く」
「行くって、どこに。またあの山へ?」

 今度はカミルが眉をひそめる番だった。ガラス片をコートのポケットに突っ込むと、青年の肩をぐっと掴んだ。
 青ざめた顔からますます血の気を引かせて青年はじたばたと力のままにカミルの手を振り払おうとする。
 なんとか必死に押さえるものの、か細い身体にこの怪我を負った状態で一体どこにこんな力が湧いてくるのか分からずカミルは少しばかり動揺した。

「離せ! 触るな!」
「ダメです。あなたはしばらく安静にしなければなりません」
「知らない、離せ!」
「それはできない。君は歩ける状態じゃないんだ」

 言い聞かせるようなカミルの声はどんどん低くなっていく。普段は頼りなく見えるほど温厚そのものの街医者は、患者自身を慮るからこそ怒りを露わにしていた。
 今にも暴れだしそうな男を押さえつつ、目線で足先を追う。ブランケットに包まれていて見えないが、数日程度で治るような怪我ではなかった。そもそも全身を負傷している状態で、こんなに動くべきではないというのに。
 すると、カミルの言うことを証明するように男が激痛に身を屈ませた。額から汗が数滴垂れてブランケットに染みをつくる。

「っぐ、ぅう!」
「今はとにかく横になってください。水を持ってきましょう。それから鎮痛剤も」
「やめろ! そんなもの身体に入れてたまるか……っ」

 痛みを自覚したが最後、堪えきれなくなって男はみるみるうちに身体から力を抜いていく。
 ただ、彼に向けるまなざしはどんどん憎悪を強めていった。瞳の紫に人間への怒りをたっぷり含ませながら、カミルもまた同罪であると糾弾するように。
 直接的な怒りをぶつけられたカミルは内心の動揺を悟られないように平静を装いながら、ほとんど無理やり肩を押し込んで男をベッドに横たわらせた。

「今すぐ床を片付けるので立たないでくださいね。何か用があれば僕を呼んで――」
「うるさい、黙れ……」

 捨て台詞は息も絶え絶えで、カミルは男の額の汗をサイドテーブルに置いていたタオルで拭うが、その手は掴まれて振り払われそうになる。しかし、カミルに怒鳴り散らしたときに体力のほとんどを使い果たしてしまったのか、氷のように冷たい指先は彼の手を掴むだけに留まった。
 抵抗しようとしていたその手がずるりと滑り落ちて、力なくシーツに沈む。今にも消え入りそうな、しかし規則正しい呼吸がほどなく聞こえてきたからほんの少しだけ安心した。