「失礼するよ」
芯の通った少し低い女性の声が診療所に飛び込んできた。カミルが出迎えに行く前に、白衣を纏った女性は勝手知ったように診察室へ入ってくる。
「こんにちは、クラウディア。どうしたんだい」
傍若無人に感じる彼女の振る舞いにとっくに慣れていたカミルは穏やかに挨拶した。クラウディアは彼を一瞥すると、対面で診察するための患者用の椅子にドカッと腰かける。
「夫の小間使いに来てやったわ。チコリーはある?」
「あぁ、あるよ。こんなところまでお疲れ様」
「あなたなんでもっと街に近いところに開業しなかったのよ」
クラウディアが呆れたように目を細めて目の前の誰よりもお人よしの男を見つめた。
ふわふわの赤いくせ毛はいつも整いきれておらず(本人的にはかなり努力しているが)、丸い眼鏡が柔和に垂れた碧眼をさらに優しく見せている。患者の身体を動かしたり運んだりするための筋肉はしっかりついているらしいが、威圧感など一切ない穏やかで呑気な雰囲気がカミルからは漂っている。
「このあたりに家を決めたとき、近所の人から『病院へ行くまでに距離を歩かないとダメだから住むのはお勧めしない』って聞いて、じゃあ僕が開業しようって思ったんだ」
「そしてフルールグに残っているのはきつい女医と能天気で風変わりな開業医ってわけね」
「ひどい言いようだなぁ」
カミルはそう言い返すものの、人当たりのいい笑みが崩れることはない。彼が子どもの患者から人気である理由は見ていれば充分分かる。
一方でクラウディアはどのような患者に対しても的確で媚びない物言いをするが、冷酷な態度に感じるからか子どもは彼女の診察を泣いて嫌がる。しかし確かな知識と判断力で住民からの厚い信頼を得ており、薬剤師の夫と共に看護師を数人雇った病院を開いている。カミルがフルールグに来る前から開業している古株の医者だ。
「チコリーだね、今用意する」
「保管庫でしょ? 入っていいなら私が探すわ」
「ううん、大丈夫。クラウディアは座ってて」
医者同士であるのもあり、二人は気心の知れた仲である。クラウディアに至ってはアウラー診療所のどこに何の薬や備品が置かれているか把握しているレベルだ。
いつもなら彼女のしたいようにさせるのだが、包帯とガーゼが明らかに減っているのを悟られたくなくてカミルは立ち上がる。負傷兵が運ばれてきたと取りつくろうこともできるが、カミルは自発的に嘘をつくことは苦手だった。
診察室の奥、乾いた空気に満ちた保管庫から目的のものを探す。薬を長いこと保管できるようにここは湿気が溜まらない造りにしており、独特な薬品臭がかすかに漂っていた。
棚から密閉瓶を取り出して、保管していた乾燥チコリーを取り出した。カミルの庭から採取した植物で、根には腸内環境を整える効果がある。
化学兵器の開発に注力する前のトーランドは化学素材・薬品の開発に注力していた。しかし生産と供給のバランスには課題が残っており、今でも薬草による治療がポピュラーだ。
「これくらいでいいかな。煎じ方の説明は必要かい?」
「夫に聞くからいいわ。悪いわね、本当なら彼に取りに来させる予定だったんだけど」
診察室へ戻ってきたカミルからチコリーを包んだ紙袋を受け取りつつ、クラウディアはじっとカミルを見つめた。その視線が何を訴えたいのか分からず、彼は首を傾げる。
「誰かが来たらこの話はすぐやめるわね」
神妙な顔でクラウディアが顔を寄せるから、カミルもその表情につられて笑みを引っこめた。
「昨日、うちの患者から聞いたの。フルールグにも軍の巡回が来るようになるみたい」
「え? でも自警団がいるからその必要は」
「キースタニアに肩入れしている国民がいないか調べるって噂よ。ここは国境から比較的近いから、あわよくばあっちの負傷兵も回収できるし」
「そんな、何のために……!」
思わず大きな声をあげたが、クラウディアは眉間に皴を寄せたまま首を横に振るだけだった。あくまで患者からの情報だから、真偽も軍の真意も図りかねる。
負傷兵が見つかったとして、その後どうするつもりなのか。悪い予感にカミルも眉をひそめて考え込むが、クラウディアが彼の心配をよそにぴしゃりと指摘した。
「ドクター・アウラー、もっと自分の身を案じなさい。負傷者はどんな人間だろうと運び込まれた時点で診てあげているのでしょう?」
「それは医者として当然だろう」
「私たちの『当然』は国のお偉いさんには通用しない。それはあなたがよく分かっているはず」
言い返したい気持ちはあるものの、クラウディアの言うことは否定しようがない。カミルは唇を噛んで押し黙って俯いた。手には日常や仕事の中でできた細かな傷がいくつかついている。
この手はどんな人間だろうと治そうと尽力する。カミルはここに運ばれてきた怪我の急患にはどんな素性か尋ねる真似はあえてしてこなかった。例えその人の正体がキースタニアの兵だとしても、カミルは平等に処置を施すだけだ。
しかし、同時にクラウディアの警告の意味も理解していた。この行いをもし軍が知ったら、自身にどんな処罰が下るだろう。彼らが人々の置かれている環境を鑑みないことは、カミルもずいぶん前から誰よりも知っている。
それでも――先ほど見送ったエイミーの笑顔が浮かぶ。自分が診られる全ての患者には、ああいう風に笑っていてほしい。
「……まぁ、あくまで噂に過ぎないから私も夫には言ってないわ」
歯がゆい気持ちを持て余してカミルが黙りこくっていると、クラウディアは少しだけ表情をゆるめた。この優しすぎる同業者が警告を素直に受けて行動をやめるとは最初から信じていない。
冗談めいた響きでそう言ったクラウディアに、カミルはなおも胸を痛めた。彼女の夫はキースタニアに親戚がいると聞いたことがある。だから彼女自身がわざわざこの診療所へ伝えに来てくれたのだろう。
「クラウディア、ありがとう。僕も用心するよ」
「本当にそうしてくれればいいけど」
なんとか笑みを浮かべてひとまずお礼を伝えると、クラウディアはいつも通りのクールな表情でカミルに釘を刺した。
(ますます言えないな……)
上階の自宅に現在進行形で患者が寝ているとは間違っても言えなくなり、カミルはほんの小さく溜め息をついた。正直に相談したとして、いい顔はされないだろう。今は彼の目が覚めるところまでは見守りたい思いが一番強かった。
「チコリー、ありがとう。このお礼は必ず」
「え、もう帰るの? せっかくだからお茶でもどうだい。庭で取れたレモングラスがあるんだ」
「午後までに戻らないといけないの。こんな辺鄙な診療所にいたら日が暮れちゃうわ」
そんなに遠いかなぁ。カミルがそれしか言い返せないでいると、クラウディアは白衣を翻してあっという間に出て行ってしまった。診療所には再びカミルのみ残される。
当たりがきつく感じる瞬間は確かにあるものの、白黒はっきり分けて物怖じしないクラウディアの判断力は医者としては好ましい。それに比べたら自分のなんと迷いやすいこと。キャリアも彼女の方が上だと分かっているものの、カミルは少し落ち込む。
しかし同じ医者だからこそ、彼女だって山の中で人が倒れていたら面倒を見るに違いないとカミルは確信していた。人命より優先すべき事項などあるものか。
その人が例え、伝承や歴史の授業でしか存在を聞いたことがない魔法遣いだとしても。
「こういうところだろうなぁ」
患者のいない診察室で、カミルはぽつりと呟いた。こうした理想主義めいているところを、彼女から危ぶまれているに違いなかった。
