碧落のマグノリア - 4/34

 帰宅して必要な作業を全て終えたカミルは寝室のベッドで横になっていたものの、目が冴えきってうたた寝なんてとてもできそうになかった。
 身を起こしてカーテンをめくる。窓から外の様子を窺い、カミルは小さく溜め息をついた。ねずみ色をした分厚い雨雲は空を覆いつくし、陽射しを完全に遮ってしまっている。
 もともと雨季のフルールグは石畳もレンガの街並みも灰に染まったように薄暗いが、街一帯を飾り立てるように花々が咲き誇る春との大きな差異もまた住民に愛されている。しかし戦争が始まった今ではこの雨がなおさら心を重くさせている。
 雨季はいつか必ず終わると分かっているが、この戦争の終着点はどこなのだろうか。そんなことを考えていると、窓ガラスに薄く映っている自分の顔にふと気づく。ひどく辛気臭い表情にカミルは眉間に皴を寄せてカーテンを閉じた。
 壁時計に目をやる。思いもよらぬ急患を背負って診療所の上階にある自室に帰ってきたのが二時間ほど前だ。そこから手当てを施して安静にさせているものの名前も分からない彼が心配で、いつも通り過ごそうにもカミルの気持ちはちっとも落ち着かない。

「困ったな……」

 こめかみを指で掻きながらカミルは小さく溜め息をついた。リビングでハーブティーを飲みながらの読書も、寝室兼作業部屋での仕事の準備も、今はあまり集中できないだろう。
 頻繁に出入りしたら患者を刺激してしまわないか懸念がよぎるが、患者の額に乗せた氷のうを取り換えようと思い立ち、カミルは隣の客室に向かう。彼が相手を心配している理由は、怪我以外にもあった。
 木製のドアをノックするが返事はない。耳を澄ましても、この部屋に人がいるとは思えない静寂が広がっている。

「入りますね」

 ごく小さな声で告げつつ、カミルは慎重にドアを開けた。
 山で倒れていた患者は目を閉じたままだった。部屋の隅に置いたランプスタンドが彼の顔を照らしているが、顔色は血が通っていないように青白い。しかしひどい発熱のため、こめかみには汗の筋が何本もできており、溶けきった氷のうは額の上でぐにゃりと形を変えていた。

 ――カミルは帰宅してから即刻彼の診察を行った。足を滑らせた際に身体を強く打ってしまったのか、全身のところどころ青紫色や鈍い赤色の腫れができていた。
 特に右足の付け根から甲にかけてひどく腫れあがっており、恐らく骨にもダメージがいっている。添え木をして固定しているものの、リハビリも考えるとこの怪我は治るのにかなりの時間を要するだろう。
 消毒した患部にガーゼを当てているときも、彼は小さな呻き声をあげたものの最後まで目を覚ますことはなかった。カミルは治療をしながらも、別の可能性について考え始めていた。

(きっと他の場所でも怪我をしてきたんだ。それをそのまま治せなくて……)

 治りかけの傷やあざもたくさん見つけたところから、カミルはそう判断した。自身の診療所にあるものでなんとか治療は済んだものの、欲を言えば街の大通り沿いに開業している同業者のクラウディアにも物資の分配など協力を仰ぎたい。
 しかし、そういうわけにはいかなかった。カミルは氷の溶けきった氷のうを持ち上げて水滴と彼の汗を拭う。
 患者の顔つきは若く、恐らくカミルよりやや年下だ。発見したときは長い黒髪に隠れて見えなかった輪郭を形づくる、痩せていてほっそりとした頬の、右側。
 皮膚から出たばかりの血液を思わせる鮮やかな赤を宿した、葉脈のようにとても細い線が張り巡らされていて、肌にヒビが入っているようにも見える。何度見ても本当に血なのではないかとカミルはぎょっとするが、タオルで拭いても、滲むことも吸い取られることもない。
 触れてみると凹凸はなく、皮膚の下に埋まっているように見受けられるが、囚人やマフィアが入れる刺青とはまた違う質感だった。今まで医療を学んできた中で、カミルはこのような皮膚の症状を見たことがない。
 しかし、医療以外であれば別だった。まさか、いや、でも、しかし。あらゆる反証が浮かんでは消える。

「あなたは、魔法遣い……?」

 歴史を学ぶ上でしか聞いた試しのないその名を、カミルは口にする。彼から返事はなく、消え入りそうな小さな寝息だけが、ひび割れた薄い唇からこぼれていくばかりだ。
 ――彼がもし魔法遣いだとしたら、クラウディアに診せるわけにもいかない。彼女がいくら優れていて聡明な医者と分かっていても。
 他の住民たちには尚更だ。カミルは心配こそすれ、厄介な気持ちは覚えない。ただ、彼がなぜこのフルールグ付近にいたのかが気になり、そして彼の体調こそが一番の懸念事項だった。