――街から連れてきた花びらを乗せた春の温かい風が、庭の木々とカミルの髪をくすぐった。これは奇跡の前触れだと囁くように。
「オレから会いに行くと言っただろう。冬を越しただけでもう忘れたのか?」
はっと身を翻す。今、耳に届いた聞き間違えようのない、低く通る声。
「……綻ぶ花の祝福がきっとカミルにも降り注いでいるように。祈りは叶えられた」
深緑のマントについたフードが外れて顔が露わになる。ゆるいウェーブのかかった長い黒髪も、右頬の紋様も、モクレンの花と同じ色の瞳も何一つ変わっていない。
マギが確かに目の前にいる。この完成されすぎた奇跡を信じられないまま、カミルはおそるおそる一歩ずつ彼に歩み寄る。
「マギ、本当にマギなのですか?」
「お前はオレが約束を破るような男だと思っているのか?」
あっけに取られているカミルに呆れつつ、質問を質問で返したマギは不服そうに眉をしかめた。それを皮切りに、カミルは勢いよく駆け寄って彼に抱き着いた。
「ああ……! すごく会いたかったです!」
「ふん、底抜けのお人好しでとびきり変わっていて、おまけに寂しがりやときた」
嫌味にしてはあまりに優しい口ぶりで呟いたマギは、カミル以上の力で抱き締め返す。
カミルは輪郭を確かめるように彼の背中をさすると、いてもたってもいられずに腕に力を籠める。
お互い身体が軋みそうなほどの力だったが、その痛みがむしろ相手の存在を現実のものだとまざまざと伝えた。
「怪我や病気はしていないですか? お元気でしたか。ああもう、何て言えばいいだろう、本当に嬉しいです」
「落ち着け。オレもコロニーも無事だ、でなければ来ていない」
抱えきれないほどの喜びに浮かされたカミルは、顔を赤くしながらマギの腕の中でぴょんぴょんとせわしなく跳ねる。
彼のふわふわしたやわらかい髪が顎先をくすぐるのがむずがゆい。彼は自分よりもいくつか年上にもかかわらず、なんという落ち着きのなさだろうか。マギはくすぐったいのと呆れるのとで眉間に皴を寄せたものの、腕の力を緩めようとはしなかった。
「カミルが傷ついていないか、ずっと心配していた」
ふと、ゆるりと顔の力をほどいたマギはカミルの頬に触れてこちらを向かせる。
神妙な表情は彼がどれほど思い詰めていたかを語っているようで、カミルは胸いっぱいになり眉尻を下げる。
「僕も、ずっとマギのことを考えていました。どこかで傷ついていないか、悲しんでいないか」
「……お前はもっと自分の心配をしたらどうなんだ」
「だ、だって……!」
言い返されてムキになり、自分の気持ちがどれほどだったのかこれから語り聞かせようとカミルが決心したときだった。
一陣の強い風が吹いて、モクレンの枝をさやさやと揺らす。紫の花びらが一枚、ちょうど彼らの顔の間を縫うように通り過ぎていった。
目を見開いてそれを見つめるマギに、カミルは微笑んだ。
「そう。マギも好きなモクレンが咲いたんです。明後日くらいには満開になるかもしれません」
そう告げると、マギは決心したように唇を結んだ。
宙をひらひらと舞う花びらを手のひらに閉じ込めると、カミルにそれを見せる。
「マグノリア」
「え?」
「モクレンの別名だ。そして、オレの本名はマグノリス。……この花に由来する」
マギ――マグノリスとモクレンの花びらをカミルはそれぞれ見比べる。ちょうどこの木の下にいるときに彼を思い出したから、とても彼らしくて似合っている。
「マグノリス。素敵な名前ですね」
彼の真名を口にすれば、言いようのない嬉しさを覚えてカミルは花のように笑みを綻ばせた。
薄桃色の頬とやわらかな赤茶色の毛、そしていつも優しい空色を宿しているその瞳に、マグノリスの視線は奪われる。
「魔法遣いが本名を明かすのは家族、そして……愛しい者にだけだ」
今度はカミルが目を見開く番だった。突然の告白に驚きを隠せない彼に、マグノリスは何より自分に対して苦笑する。
カミルと会わなければ、自分はこんなに心変わりをしなかったのに。しかし、彼に助けられたことに対して自然の導きに感謝こそすれ、恨んで後悔することなどなかった。
「おかしいだろう? 人間を強く憎む同胞だっていて、オレも全部を認められるわけではないのに、こうしてカミルに会いに来てしまった」
コロニーを出て、街へと下りてまでわざわざ人間の元へ足を運んだのだ。同胞に知られれば石を投げられて絶縁を突きつけられても仕方がない。
魔法遣いを迫害して、自然を減らすような真似をする人間は決して受け入れられないはずで、彼らに対する憎悪はまだくすぶっているのに。
それでも、心に隙間があるとみれば必ずカミルが浮かぶのだ。
――今の自分がどれほど矛盾に満ちているか、理屈を伴いながら理解したところで、マグノリスは心を押さえることが最後までできなかった。
「笑うか?」
問われたカミルは、マグノリスから目を離せないままゆっくりと首を横に振る。
どれほどの思いで自分に会いに来てくれたのだろう。そして、マグノリスがそうしてくれたことに、全ての理屈を通り越して心から喜んでいる自分がいるのをカミルは理解していた。
「……あの裏山ですが、この前、数個の小さな新芽が地面から顔を覗かせていたんです」
血のように浮かぶ紋様をそっと親指でなぞりながら、カミルはぽつりと話し始める。
「そのとき、再生とともに罪を償おうと誓ったんです。この自然を取り戻して、もっと豊かにさせるのが僕の贖罪なのだと」
誰かを許すのとはまた違う苦しみが自分に対して生まれたとしても、生きていく道を見つけるのはできるはずだ。魔法遣いにも、人間にも。
「マグノリス。貴方の罪を、僕にもください。僕も、マグノリスが愛しいんです」
二人に芽吹いた感情は、相手から「愛」と名付けられた花を開かせていく。ここから次々に蕾をつかせて満開にさせるのも枯らせるのも、二人にしかできないことだった。
温かな太陽が浮かぶ真っ青な空の下で、マグノリアの名を持つ花がまた一つ綻ぶ。
マグノリスとカミルにとっての許しの春が、フルールグの端っこに到来していた。
《了》
