四章・許しの春
診療所の臨時休業を考えていたカミルだったが、翌朝起きると体調は完全に元通りになっていた。それどころか身体は軽く、いつもよりずっと目覚めが良かった。
サイドテーブルには彼が用意しただろうハーブティーや粉薬、そして追加で作ったらしいリコリスキャンディーが置かれていた。
ハーブティーのカップに触れるとまだ温かく、マギが一晩つきっきりで看病してくれたのが分かり、カミルの胸は満ち足りて苦しくなる。
リビングに向かうと、マギは朝食を作っているようだった。何かを煮ている鍋に視線を落としていたマギは顔をあげる。
「熱は下がったようだな」
「看病してくれてありがとうございました。マギのおかげですっかり元気です」
とてとてとマギの隣に歩み寄り、カミルも鍋を覗き込む。中は麦がゆで、ふわふわと湯気に甘い香りが乗って漂う。それだけで食欲が湧いて腹の音が鳴りそうだ。
「いい匂い。僕も朝食にしようかな」
「何を言っている、これはお前の分だ」
「えっ」
カミルが目を丸くしてマギを見るが、マギの方こそカミルの反応に首を傾げて訝しげな目をしていた。
「熱と頭痛は一過性だが、まだ本調子ではないはずだ。おとなしく座ってろ」
「は、はい」
追い払われたカミルはおとなしく席についたが、マギが朝食まで用意してくれている事実をうまく呑み込めないままだった。
嬉しいやら驚くやらで落ち着けずに出来上がりを待つ一方で、カミルの胸中は完全に晴れたわけではない。昨日の号外に書かれていた通り、最新兵器の毒ガス爆弾が使われたらキースタニアは大惨事になるだろう。
ただ、傷を負うのはキースタニアだけではない。最前線で戦っている兵士や街の人々にカミルは思いを馳せる。それ以外にも、世界中に影響が及ぶはずだ。生物兵器の使用は二カ国間のみの問題ではないのだ。
(僕にできることは何だろう……)
この診療所で患者を診続ける以外の手立てを欲していた。しかし具体的な案は何も浮かばない。
歯がゆさにカミルが唇を軽く噛んでいると、目の前にどん、と勢いよくスープ皿が置かれた。目の前で立ち上がる湯気に眼鏡が一瞬で曇り、カミルは慌てて外した。
「わわっ」
「そんな辛気臭い顔をして、お前はまた熱を出したいのか?」
ぼやけた視界でも、向かいに座って足を組んだマギが苛立った顔をしているのが分かる。袖で眼鏡を拭いたカミルは、刺々しいが自身を案じた言葉に申し訳なくなる。
「す、すみません。朝食ありがとうございます」
「オレはまだもう少しここにいる」
出来立ての麦がゆをスプーンで掬ったときだった。カミルはぽかんと口を開けてマギを見つめる。
彼はいたって真剣な表情でカミルを見つめ返した。ここに残る意思はとうに固まっているようで、紫の双眼はカミルをしっかり捉えた。
「ほとんど良くなっているが、完治まではしていない。それに軍が巡回しているなら、相応の準備をする必要がある」
「はい、もちろん。そのときは手伝います」
「カミルも危ないはずだ。もともと軍にいたなら、連中はお前に目をつけているに決まっている」
その通りだ。数日前に診療所を訪れた軍人たちは初めてカミルに会ったという素振りだったが、自身の存在を知らないわけがない。
憂鬱なことが重なりすぎて、カミルは正直げんなりしてしまう。自棄になった勢いで、何もかもを投げ出したい衝動に駆られそうにもなる。
それでもなんとか自分を奮い立たせられるのは助けたい患者たちがいるのと、守りたいものが目の前にいるからだった。
「退屈でしょうが、僕が診療所にいる間は玄関を開けないようにお願いしますね」
「分かっている」
「万が一軍がこの家に入り込んだときは……」
どこに隠れるべきかいくつか提案しようとした瞬間――玄関のドアをダンダンと乱暴に叩きつける音が二人の間を引き裂く。
二人ともびくりと肩を大きく揺らしたあと、マギは玄関へ顔を向かせて、カミルはそのままさっと血の気を引かせて硬直してしまった。
あまりに横暴なノック音に、まさかさっそく軍が来てしまったのではないかと恐ろしくなる。
(声を出すな、動くな)
彼の動揺を汲んだマギは口の動きのみで伝えた。それに頷くのが精いっぱいで、カミルは震えを押さえられない。ただ、必死に頭を回転させて最善策を考える。
どうすべきかマギの方もなんとか知恵を絞り出していた。大昔の魔法遣いは自然の力を利用して空間さえも操れたと聞いたことがあるが、今となっては夢物語でしかなく、そこまでの魔力はマギたちの世代には残っていない。
考えあぐねるカミルの内には極度の緊張が走って今にもはち切れそうだった。しかし、ノック音の主は二人が想像していた存在とは全然違う人物だった。
