碧落のマグノリア - 2/34

 ――どんなに雨が邪魔しても、彼の目と耳は誰かの助けを拾い上げるようにできていた。ちょうど今ビラを貼り終えた急斜面がなんとなく気になって、カミルは看板越しに顔を覗かせる。
 地面が乾いている時でさえ足を運ぶのが難しそうな急な下り坂の先、何かが転がっている。それが人だと分かった次の瞬間には、カミルは既に坂道へ一歩踏み出していた。

「大丈夫ですか!」

 木々の幹や枝を掴んで身体を支えつつ、カミルは横たわっている人物へ声を張り上げて呼びかける。駆ければ数秒で済むのに、この雨が急に憎らしくて仕方がない。カミルは少し身を引くと、鞄から念のため持ってきていたロープを腰に巻きつけて、近くの幹に結びつけた。
 かかとが泥をえぐってズルリと滑るたびに小さく息を飲むが、カミルは目線を決して相手から離さないまま着実に下っていく。うつ伏せで顔は分からず、長細い体躯は男性にも思えるが、ずぶ濡れで重たそうな髪は背までの長さもあり、見た目では判断できない。
 雨を吸い切ったマントが地面にへばりついていて、倒れてから長いこと経っていることを窺わせる。最悪の予感に頭の中で警鐘がひっきりなしに鳴り響いているが、カミルは動悸から意識を逸らして今後の対応を考え続ける。

(血は流していないようだ。頭を打っていたら戻って他の病院にも連絡を入れよう。骨折なら添え木を見繕って、打撲なら僕が……)

「大丈夫ですか!?」

 永遠に等しい距離を下り終えて、カミルは倒れている者の傍らに膝をついた。遠目で見た通り、ひどい出血はないようでほんの少しだけ安心する。うつ伏せではあるものの、顔は横を向いている。
 呼吸をしていればいいのだが――カミルが顔の方へ回り込む。顔を覆うように張りついた長い前髪を避けて、唇に指を近づけた。

「よかった……!」

 非常に頼りないが、呼吸もしている。マントの隙間からわずかに覗く喉も、よく目を凝らせば動いているのが分かった。小さな隆起の浮き出た首は、この人物が男性であることを示している。
 彼は頭をひどく打ちつけてはいないようだが、瞼を開かせて瞳孔の反応も確認しておきたい。ほとんど癖のようなもので、ペンライトも含んだ簡易的な検査器具をカミルはいつも鞄に入れている。
 状態を確認したら一刻も早く彼を背負って家に帰らなければ。片手で鞄の中を漁りつつ、彼の顔を覆う髪をあらかた避けたところで、カミルは思わず声をあげて凍りつく。

「これは……」

 ヒビのように彼の顔に浮かぶ葉脈状の真っ赤な線は、真っ青な彼の顔色と対照的だ。一瞬血と見紛ったカミルは親指で拭うがちっとも薄くならない。
 それが彼の肌にしっかり根づいた紋様であると分かりはしても、全く信じられない。一刻を争う事態だというのに、カミルは我を忘れて数秒ほど彼の顔をじっと見つめてしまった。

 ――彼は、まさか。しかし、とうの昔に……。

「とにかく、連れて帰ろう」

 彼が本当にそうだとしたら、ますます放っておくわけにはいかない。自分の両頬を手のひらで軽く叩いたカミルは、気を取り直してテキパキと彼の他の部位を確認する。
 ひどい打撲で、片足は折れているかもしれない。応急処置を終えたカミルは彼を慎重な動作で背負い、歯を食いしばりながらロープにしがみついて斜面をのろのろと戻っていく。
 カミルが山に入ってから何時間か経っていたが、二人を打つ雨は一向にやみそうになかった。