碧落のマグノリア - 15/34

 たかが寝ぐせで十分近く待たせてしまった申し訳なさでカミルがおずおずとリビングに顔を出すと、マギは窓際に佇んで外を眺めていたようだった。その光景にカミルは目を見開いて小走りで駆け寄る。

「マギ、座っていても良かったんです。足は大丈夫なのですか?」
「……カモミールの匂いが少しきつい。髪を整えるにしても付けすぎだろう」

 ピクリと眉を動かしたマギは問いには答えずに彼の髪を見つめた。思わずカミルは寝ぐせのひどかった箇所をばっと手で押さえる。
 安眠効果のあるカモミールは髪をやわらかくして整えやすくする効果もあるため、整髪剤に用いられるごく一般的な素材だ。そんなことは薬草に詳しいマギも知っているに決まっているが、指摘されるのはかなり恥ずかしい。
 カミルは「あはは……」と空虚な笑い声をあげつつ、気まずいながらも再度きちんと「足はどうですか?」と尋ねた。

「まだ力は入れられないが、慎重に歩く分には問題ない」
「……これから庭に行きますが、階段の上り下りもあります。痛みが少しでもひどくなったらすぐに言ってくださいね」

 しかし、人間への不信感がある以上、自分に素直に伝えるのは難しいかもしれない。カミルは改めて彼へ細心の注意を払いながら玄関へ赴いた。
 濃い灰色の雲が空を覆い隠している。このままではじきに雨が降りそうだとカミルは危ぶんだ。閉じないように押さえていたドアから足を引きずりつつゆっくり出てきたマギを振り返る。

「もし庭にいる間に雨が降り始めたら、あなたを背負って戻りましょう」
「人間相手にそんな真似許せるか」

 にべもなく言い返されたカミルは、昨晩のマギの激昂を思い返して少し怖気づく。もっとも、怯えたところで何かがあれば見つけたときのように彼を背負って家へ戻る意思は変わらないが。
 診療所の上階に自宅を建てているため、裏の庭に行くにはまず外階段を下りなければならない。カミルは振り返るが、マギはそれに応えず彼より先に階段へ足を踏み出した。

「待ってください、どうか僕に掴まって――」

 手を差し伸べかけたカミルはやはり引っこめてしまう。つい先ほど自身を拒絶したマギの態度が思い留まらせた。しかし、手すりのみを頼りにする彼をじっと見ているわけにもいかない。
 どうしようか考えあぐねていると――ふと、引っ込めた手を掴まれて引き寄せられた。細長く節の張った指は井戸水のように冷たく、カミルの身体がびくっと小さく跳ねる。

「もう約束を忘れたようだな」
「あ……」

 『あなたを傷つけるようなことは絶対にしないと誓います』――。
 今よりもっと冷えていた彼の手を少しでも温めようと必死に握りながら伝えた言葉を、決して忘れたわけではなかった。
 かつて人間たちが拷問にかけて絶滅寸前まで追いやった魔法遣いを、自分が傷つけるわけにはいかない。
 そう強く誓ったものの、マギから信頼を得られるかどうかはまた別の話だと思っていた。

「待って。一緒に下りましょう。僕のどこを掴んでもらっても大丈夫です」

(きっと人間の僕を試したいんだ)

 失意とともにマギの手があっという間に離れていく前に、カミルはしっかりと掴み返した。初めて目を覚ましたときのように、自分の体温がマギに移ることを願いながら、力強く。
 マギはほんの小さく息を呑んで、それから自身の手に籠める力を緩めた。カミルが一方的に掴んでいる形になるが、マギにとってはそちらの方が気楽だった。この体温を自ら握りこんで感じると、昨晩彼に抱いた、整理のしようがない感情が強まる危機感を本能的に覚えたからだった。