碧落のマグノリア - 14/34

 診療所の定休日でも、カミルはいつもと変わらない時間に起きる。だから、いつもより早く起きても寝過ごしても、体内時計がずれるせいかなんだか頭がしゃんと冴えない。今朝は前者だった。

 ベッドボードの眼鏡をかけ、寝ぼけ眼で壁時計を確認すると、時刻は五時半を少し過ぎている。部屋は薄暗く、日すらまだ昇りきっていないようだ。
 昔から一度目が覚めると二度寝できない質のカミルは、眉間に皴を刻みつつ冷たい床に足を下ろした。大きなあくびを一つ決めると、よたよたと少しおぼつかない足取りで部屋の外へ出た。
 そのまままっすぐリビングに向かおうとして、ふと隣の客室が気になった。昨晩はグラスと水差しを持って行ったら、マギは既に眠りに就いていた。「たくさん喋らせてしまった」と後悔を覚えたが、寝顔を窺うと顔に力が入っておらず、今までで一番穏やかに見えた。
 せめて素敵な夢を見てくれれば――そう祈りながら部屋を後にしたが、彼はよく眠れただろうか。

「……やめておこう」

 様子を見ようか逡巡して、カミルはやめる。まだこんな時間なのだ、万が一起こしたら可哀想だという思いが勝った。数時間後に回診すればいい。
 ぺたぺたと小さな足音を立ててリビングに向かいつつ、頭を掻く。くせ毛に寝ぐせが付くとひどいものだが、朝食後にのんびり直せばいい。カミルがすっかり気を抜いていたときだった。

「……お前か」
「ぅうっ!?」

 突然声をかけられてカミルの喉から潰れた悲鳴が出た。一瞬で眠気が吹き飛んだ目が、リビング端のキッチンに佇んでいるマギを捉える。なぜかシャツを着ておらず、ところどころ包帯やガーゼのついた真っ白な上半身が目についてカミルは動転する。

「なっ、え、マギ……」
「一晩でずいぶん汗をかいた。洗い場を教えてくれれば自分で洗う」

 リビングチェアの背に掛けていたシャツを掴んだマギは事もなげに答えながら、右足を引きずりつつカミルへ近づく。脱いでいるのはちっとも気にしていないようだ。
 治療時は全く意識していなかったものの、こうして意図していないときに目の当たりにすると、同性の身体でもどうにも気恥ずかしくなってしまう。マギから露骨に視線を逸らしたまま、カミルは棚に畳んで置いてある仕事着を引っ掴んだ。

「こ、これ、僕の仕事用のワイシャツでよろしければ……洗ったばかりなので。着ていたものは僕の方で洗いますよ」

 それを受け取りつつも、マギは顔をしかめてカミルを見下ろした。

「お前の服を汚したことは悪いが、それでも自分の着ていたものを洗われるのは不快だ。どこで洗濯している?」

 おずおずと彼に向き合えば、吊り上がった眉に頑固そうに閉じられた薄い唇が目に入る。医者なら誰しも患者の汗や血液や排泄物、吐いたものの処理までひと通り経験しているため、まさかそんな些細な理由で断られるとは思わずカミルは目を見張った。

(僕は気にしない……という話じゃないな)

 人間への忌避感だろうか、それとも青年と呼べる年齢がそう思わせるのか。ここで言い返してもマギの感情を逆なですると判断した。カミルは小さく溜め息をつき、再び身体ごと逸らす。

「分かりました。いつも庭で洗っているので、あとで案内しましょう。だから服を着てください……」
「庭……」

 その言葉にぴくりと反応したマギは眉間の皴をほどく。なぜか必死に自分から目を逸らしているカミルに従いワイシャツに袖を通しつつ、昨晩彼が用意してくれた花を思い出した。

「お前の庭、見てみたい」
「え?」
「自然が好きだと話していただろう」

 魔法遣いは自然から生命力を受けて生きている――昨晩の説明を反芻してカミルは「ああ」と微笑んだ。
 魔法遣いの生きる原理を理解しきったわけではないが、自然について語るマギの表情はいくばくかやわらかくなる。それならば、とカミルは快諾して頷いた。

「喜んで。まだ雨が降っていないから、今のうちに――」

 そう言いかけて「あっ」と声をあげる。
 彼の身体越しに見えるキッチンの端、水差しに昨晩自分が切って渡した花々が生けられている。サフランもゼラニウムも、どれもがまだまっすぐで青々とした茎で花を支えていた。
 今さら気がついた自分を恥じつつ、カミルはしばしその水差しに目を奪われる。彼の視線の先に気づいたマギが気まずそうに目を伏せた。

「水差しに入れるべきではないだろうが、花瓶が見当たらなかった」
「はい」
「水を定期的に綺麗なものに替えれば、しばらくは持つだろう」
「生け花が好きなのですか?」

 赤や黄色、白など自然の鮮やかさを宿した花弁は、ほの明るい朝の陽を反射して一層色濃く見える。カミルは彼が魔法遣いという異種族であるのも忘れて、ごく普通に問うた。

「切ってまで飾るような真似を拒む者もいるが、オレはどんな姿になってもその美しさは変わらないと思う」

 マギもまた、目の前の男が憎むべき人間であることを意識せずに自分の考えを述べた。そんな自分にハッと気づいたが、共通の話題を話す口は止められない。

「無闇にその命を費やさなければ、自然はきっとオレたちを守り、生かしてくれるはずだから……」

 目線の少し下にあるカミルの顔を見つめながら、言葉尻は消えていく。分厚いレンズ越しの碧眼は晴れの天気を彷彿とさせた。花を見つめる濁りのない空色に嘘を見出す方が困難で、マギはそちらに目を奪われる。

「花瓶はあとで出しておきますね。庭を案内しましょう……どうしましたか?」

 怒りでも悲しみでもない感情を浮かばせながら自分を見つめているマギに、カミルは首を傾げる。今の彼から窺えるのは、自然に対する安らぎでもないようだ。
 さて何だろうと考える前に、カミルは「わぁっ!」と大きな声をあげた。頬を赤くしながらせわしない手つきで自分の頭を必死に撫でつける。

「ね、寝ぐせはいつもひどくて……! このくせ毛にはずっと悩んでて、と、とにかくな、直してから案内しますっ」

 ゆるいウェーブを描くマギの長髪を目にすると、飛び散った羽毛のような自分の髪がますます恥ずかしくなる。早口で言い訳に等しい説明をすると、カミルはマギの訝しんだ顔を確認する間もなく寝室へ飛び込んだ。
 ぎちぎちと引っかかってまるでブラシが通らない髪に痛みを覚えつつ、鏡台から霧吹きを取り出し、寝ぐせを湿らせるなどして悪戦苦闘する。

「寝ぐせくらい直してから出ればよかった……」

 後悔を口にしながらカミルは大きな溜め息をついた。まさかマギが起きているとは思わず、ひどいものを見られた。
 鏡に映っている自分の顔がまだ赤い。確かに頬には軽く痺れるような熱さが残っている。寝ぐせを見られたりマギの上裸を目にしてしまったりと、家に誰かがいるだけで想定外のことがあまりにたやすく起こる。

「……これどうやったらいいのかな」

 イレギュラーな事態に手がおぼつかなくなっているのか、絡まって跳ねた寝ぐせがなかなかおとなしくなってくれない。自分の髪にとってはないよりマシ程度の整髪剤を少しずつ手に取りつつ、カミルは鏡と見つめ合いながら少し途方に暮れた。