碧落のマグノリア - 1/34

一章・忘れ去られた存在

 辺り一帯はすっかりぬかるんで、一歩一歩に細心の注意を払わなければ簡単に足元を掬われてしまうだろう。それでも雨は容赦なく降り注ぐから、この山で土砂崩れが起きるのも時間の問題だ。
 既に意味を成していない雨合羽を被り直しつつ、カミルは慎重に山道を登っていく。彼の暮らす麓の「フルールグ」と、ハイキングにちょうどいいこの小さな山はもう何百年もの付き合いに及ぶ。昔からの住民は雨季にここへ来ようとはまず思わないが、ここには薬になる草花や国境の外で高く売れる植物が生い茂っているからか、まれにこんなひどい天気でも山に入ろうとする者がいる。
 だからこそカミルは、この場所に慣れきった自分が行く意味があると信じていた。似たような木々が立ち並ぶ山の中だろうが、彼は自分のおおよその現在地と帰路を把握できた。
 あともう少し進めば、急斜面の手前に到達できる。数年前に立てて以降、「進入禁止」の看板文字が消えかかっているのがどうにも気がかりで、カミルは応急処置としてその上に被せるビラを作った。溶かした蝋を文字が消えない程度にごく薄く塗ったから、雨季を乗り越えるまではなんとかもつだろう。

「……あった!」

 眼鏡にひっきりなしにつく雨滴を拭って、カミルは看板まで駆け寄った――ロングブーツにまとわりつく泥のせいで、徒歩よりもずいぶん遅い速度で。
 ベストのポケットに丸めて突っ込んでいたビラを看板に押し当てて、肩掛けカバンから小さなハンマーと釘を四本取り出す。大工作業は得意ではないが、そう言っていられない。視界不良の中でカミルは目を細めつつ、カンカンと緩慢な動きでビラを看板に打ちつける。
 フルールグを有する国「トーランド」の雨は秋の風物詩だ。温暖な気候から生まれる雨雲が冬へ近づくにつれて去っていくのを、人々は家でじっと待つ。
 カミルはそんな人々の例外だ。自警団の巡回すら減る今の時期、近寄ってはいけない場所はないか、困っている人はいないかいつもより出歩くことが多かった。
 風がひっきりなしに吹き荒れる春に比べると、ただ雨が降るだけの今はまだ優しいように思える。なんとかビラの四隅を看板に打ち終えたカミルは「ふぅ」と一息つき、用が済んだのでそのまま帰ろうとした、そのときだった。